青年ラファウ登場の意味~『チ。―地球の運動について―』

前々から気になっていたけど手を出せてなかった『チ。』を一気読み。凄く面白かったし、印象的なセリフや場面も挙げたらキリがないくらいですが、それとは別に、最後に残った謎がひとつ。

それはもちろん、アルベルトのエピソードで登場した青年ラファウであるわけですが、現時点での結論をまとめておこうと思います。

 

 

 

1 矛盾

最終エピソードのアルベルトの回想で、ラファウという名の青年が登場します。彼はアルベルトを可愛がり、良き師となりますが、異端視されかねない宇宙論の資料(おそらくは地動説関連)を巡ってアルベルトの父と諍いになり、殺してしまいます。

このラファウ青年は何者だったのでしょうか。

第1集で登場した12歳の少年ラファウは服毒死した上、遺体もノヴァクや他の異端審問官たちの前で焼却されています。

万一薬で仮死状態になっただけでどっかから調達してきた遺体とすり替えた…などの手品があって生き延びていたとしても、ラファウ12歳時点からダラス&オクジーが石箱を発見するまで10年、ドゥラカが伝書鳩を飛ばすまで更に25年。これがアルベルト大学入学とほぼ同時期だとすると、アルベルトの回想はその10年ほど前。ラファウは30代後半になっているはずなので青年ラファウとは年齢が合わないし、辛うじて刑死を免れて生き延びた少年が、前歴を隠して家庭教師をやったり知的若者グループの花形になったり…というのにもムリがあります。

何より彼は地動説を知りません。少年ラファウが生き延びて青年ラファウになったわけではないことは明白です。

とはいえ…容姿にしても、孤児でありながら学者に引き取られて裕福な生活を送っているという身の上にしても、優秀な能力や人望の裏にひそむ幼稚なエゴイズムにしても、別人とは思い難いのも事実。

あたかも、少年ラファウがフベルトと出会うことなく、地動説の美、異端として裁かれる恐怖、石箱を託された責任、それらを何一つ知らずに成長した姿であるかのようです。

では、アルベルトのエピソードだけはそっちの世界線上にあるのでしょうか。

しかし、利益の1割をポトツキに贈るという少年ラファウの遺志や『地球の運動について』という本のタイトル、そして送られてきた手紙そのもの。これらはやはりラファウが死によって石箱を守った世界、第1集から続いてきた物語の先にあるもの。

つまり、少年ラファウと青年ラファウは両立し得ない、矛盾する存在なのです(名前も中身も同じそっくりさんでしたーという場合はべつとして笑)

 

では、この矛盾するエピソードが最後に置かれた理由は何なのか。大きく分けて2つあると考えます。

 

2 (理由その1)敢えて置かれた捻じれとしての青年ラファウ

1で述べたように、アルベルトのエピソードの青年ラファウと、それまでの物語の少年ラファウは矛盾する存在です。『チ。』という作品の中に2人が存在することによって、話の辻褄が合わなくなっているわけですが、辻褄を合わなくさせることこそが、作者の狙いの一つだったのではないかと思います。

二人のラファウによって生じる捻じれ、座りの悪さが、ある種の幻想味をもたらしフィクション度合いを上げ、ドゥラカまでの物語が現実の歴史に繋がると(作品の中ですら)言ってるわけじゃない、という警告灯の役割を果たしている。多くの歴史フィクションが、作品の外では100%創作でも、作中においては真実であるのと対象的に。

そして、そのように仕掛けた目的は、『チ。』という物語の主眼が、現実の歴史の隙間を埋めることではなく、「真理を求める人々の努力、犠牲、挫折。その積み重ねが歴史を作るのだ」ということにあったが故に、ラストで「スッキリ史実に繋がった!」と安心されてしまうことを避けるためだったのではないか…と思います。

 

3 (理由その2)「真理への愛」の危うさ

(1)信仰と真理

アルベルトの回想パートで、真っ先に頭に浮かんだのはもちろん少年ラファウでしたが、もうひとつ思い出した場面があります。

それは第3話、木の枝に挟まったボールを通りかかったノヴァクに取ってもらった男の子が、遊びから帰ってニコニコ顔で家の扉を開けたら凄惨な光景が…というあの場面です。

この親子は名前も出て来ないし、顔もアルベルト親子と似てなくもないけどソックリというほどでもない。異端審問官の仕事は処刑ではないのであの父親はたぶん死んではいない(…はず)。家の様子などもだいぶ違うのでノヴァクの拷問がトレースされている、というわけではありませんが、(1)勇んで家のドアを開けたら変わり果てた父の姿 (2)やったのは、先刻まで少年に気さくな優しさを見せていた男 (3) 男は罪悪感皆無

という共通点から、対比させて描かれていると考えられます。

ポイントは気さくな優しさと罪悪感のなさ。ノヴァクも青年ラファウも性格は違いますが狷介だったり意地悪だったりするわけではなく、少年に対してノヴァクが見せた優しさにも、アルベルトの賢さや情熱に対する青年ラファウの期待にも嘘偽りはない。決して血も涙もない異常者というわけではありません。

それなのにその父親に対する暴力を見られても、動転とか後悔とか、フツーあるだろ!という反応がなく妙に平静なのは、自分の行為は正しく必要なことで、それがもたらす悲惨は取るに足りないものだから。

大切なもの、守り抜きたい尊いもの。しかしそれのみに囚われ絶対視してしまったとき、人間性のスイッチはオフになり、加害することへの迷いも痛みも失われる。ノヴァクを始めとするC教側では何度も描かれていたけど、それは真理を追究する側でも当然起こり得ることです。

(2)「真理」のための犠牲

フベルトから受け継いだ石箱の資料を守るため、自死を選んだ少年ラファウ。彼はフベルトと違って託す相手を見つけることはできませんでしたが、それでも資料を焼き捨て、地動説の理論を覚えている自分が生き残るよりも、いつ来るかもわからぬ次の誰かが石箱を発見し、研究を続けてくれることに賭けた。自分が生き残って大学に行き、ひそかに研究をやり直すこともできたのに(ただし過去の膨大な観測記録等は失われる)、石箱に収められた成果を次に託す方を選んだのです。

12歳の少年にそんな自己犠牲を選ばせたのはノヴァクとの会話で語られたとおり、狂気であり、愛でした。

青年ラファウもまた、地動説こそ知らないけれど、真理を愛し追究しようとする若者だという点に変わりありません。自己評価は非常に高いけれど最初の頃のバデーニのような偏狭さはなく、知識は独占せず広く共有されるべきものと考えています。

そして、過去から積み上げられてきた貴重な資料が、消滅の危機に瀕している、という情況。これも具体のシチュエーションは違いますが本質は同じです。

ここで少年ラファウは自らを殺すことで守り、青年ラファウはアルベルトの父を殺すことで守ろうとした(フベルト体験を持たない彼のこと、捕まってから資料のこともあっさり自白させられ没収・焼却されてしまいそうですが)。

真理への愛は、感動的な自己犠牲を生む一方で、殺人への忌避や罪悪感も消し去ってしまうのです。

(3)真理の追究にも負の側面がある

死を前にしたノヴァクは、自分は悪役だったのだと悟りますが、対する真理追究派の主人公たちは、いろいろ欠点があるにせよ総じてヒロイックに描かれています。殺人や暴力も基本的には弾圧に対する反撃・抵抗ですし、現代日本に生きる私たちには「地動説弾圧は悪だった」という認識があるのでなおのこと、反撃のための実力行使は必要悪、あるいは「良い暴力」として受け止められます。

でも公平に考えれば、信仰だけでなく真理の追究にも非人間性がつきまといますし、自己犠牲を厭わぬほど何かを絶対視することは、他者の犠牲を当然視することと表裏一体でもある。青年ラファウは、そういった「真理への愛」の負の側面を体現し、見えやすくした存在でした。

アルベルトの家庭教師として別人を登場させることもできたはずですが、もしそうしていたら、アルベルト父を殺したそいつ個人が傲慢で酷いヤツだった、そういうヤツもいるよね、で終わってしまったでしょう。12歳の若さで死を選び、その意義を理解し満足して死んでいったラファウ、私たち読者に強い印象を与えたラファウの姿をとっているからこそ、負の側面も「真理への愛」から切り離せない、危うい本質だとわかるのです。

そしてアルベルトは、青年ラファウの志を肯定しながらも彼がとった手段は否定し、違うやり方を模索し始めます。

そして巻末に記された、アルベルトがコペルニクスの師となったという歴史的事実。アルベルトが求めた「違うやり方」は確かに存在して、地動説の完成に繋がりました。そして、それを見い出したのは現実に生きた人間の功績であり、これからも課せられ続ける責務でもあるのです。

 

4 まとめ

「現実の歴史の狭間に消えた名もなき英雄たちの物語」であることを免れると同時に、真理を探究することの危うさを乗り越えて求め続けろ、と現実に向かってボールを投げ返したーー青年ラファウをあえて登場させた意義は、そこにあったのではないか、と私は思っています。

 

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