"京には見えぬ鳥なれば" ~古典文学の中のユリカモメたち~

古典文学の中で「都鳥」としてしばしば登場するユリカモメ*1

『伊勢物語』の中では「京には見えぬ鳥」だの「皆人 見知らず」だの言われてしまっていますが、実際にはずいぶんと有名な鳥だったらしく、いろんな作品に登場しています。当時のみやこびとたちにとって、都鳥はどんな存在だったのか。ちょっと気になって調べてみました。

 

※引用部分や事実の記載には正確を期すよう努めていますが、誤りがありましたらご容赦ください。ご指摘いただきましたら確認の上、訂正いたします。

 

 

 

(1) 昔男(≒在原業平)と都鳥(『伊勢物語』)

おそらく日本文学史上最も有名な都鳥は、『伊勢物語』の東下りの段に登場する都鳥でしょう。

主人公「昔男」と目される在原業平*2は825年生‐880年没*3、恋多き貴公子として知られた彼が最も活躍した…というかお盛んだったであろう10代後半~30代の時期は平安時代前期の9世紀中盤。『伊勢物語』の成立には諸説ありますが、少なくともその頃よりは後の時代に、「むかし、をとこありけり」と昔を振り返る形で描かれています。

 

【伊勢物語 第九段】*4

――昔、世の中がいやになって京を離れて東国で暮らそうと考えた男が友人たちと共に旅立ち、かきつばたが美しく咲く三河国、5月の末だというのに雪が白く降り積もった冨士山を仰ぎ見る駿河国を過ぎ、武蔵国と下総国の境の隅田川(今の隅田川ではなく、利根川から分岐した下流のひとつで、現在は消滅している*5)までやって来た。川のほとりで、「こんなに遠くまで来てしまったなあ」と男と友人たちがわびしがっていると、渡守が「早く舟に乗れ。日が暮れちまう!」と急かす(というのが、第九段のここまでの流れ。適当ににまとめましたがだいたいこんな感じだと思います)。

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さる折しも、白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水のうへに遊びつゝ魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、皆人見知らず。渡守に問ひければ、「これなむ都鳥」といふをきゝて、

名にし負はばいざこととはむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと

とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。

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白い鳥でクチバシと脚が赤い、という姿形もユリカモメに合致していますが、「水のうへに遊びつゝ魚をくふ」というくだりが、水の上を自在に飛び回ってはダイブして魚を捕らえるユリカモメの生態を活写しています。

※写真はさいたま市・戸田市にまたがる彩湖(さいこ)こと荒川第一調節池

 

作中での都鳥は、都にはおらず主人公たちは誰も知らない。実際には都にいるのに「京では見ない」と書いたら平安時代の人とて「いるじゃん」と即ツッコむでしょうから、現実でも都にはいない鳥だったのでしょう(なお、現在は鴨川にもユリカモメは飛来するそうですが*6、1970年代以降のことのようです*7)。

とはいえ描写の的確さからして、作者自身は実際に見知っていたか、少なくとも確かな情報に基づいて書いていることはおそらく間違いない。また、読み手側も都鳥のことを全く知らなかったら、都鳥?何それ?という余計な興味に肝心の物語や歌の面白さ哀切さが喰われてしまいますから、読者も知っている前提の上に作られた歌であり、ストーリーだったと考えられます。

じっさい、『伊勢物語を読み解く 表現分析に基づく新解釈の試み』(山口佳紀著、三省堂、2018年。以下『伊勢物語を読み解く』と言います。)P29-33で紹介されている登場作品を見ると、『伊勢物語』以外のの都鳥は、京にはいないけれども皆が知っているはずの存在として描かれているように思われます*8

 

ところで。

時系列を考えると、三河国でかきつばたが咲いてて冨士山見たのは旧暦5月末。とすれば、隅田川に辿り着いたのはその少し後、もう夏だったんじゃないかと思うのですが、そうなるともうユリカモメはとっくに繁殖地に帰ってしまっていないはずだし、残っていたとしても夏羽 ↓ になっていたはずでは…

そこまでは作者も知らなかったのか知ってたけど考証まで気が回らなかったのか、あるいは文学的感興優先で「細けぇことはいいんだよ!」したのか、それは知らない。

 

(2) 和泉式部と都鳥(『和泉式部集』)

昨年のNHK大河ドラマ「光る君へ」にも登場していた和泉式部は、清少納言や紫式部と同時代人。紫式部とは彰子に仕える同僚だったことはドラマでも描写されていましたが、清少納言とも歌のやり取り*9*10が残っています。

 

【和泉式部集 681】 *11

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仮屋して、浜面に臥して聞けば、都鳥鳴く

言問はば ありのまにまに 都鳥 都のことを われに聞かせよ

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見るからに『伊勢物語』の「いざ言問はむ」を踏まえた歌ですが、原歌の哀切さに甘さが混じるのに対し、都で何やら宜しくないことがおこっている予感があってそれでもありのまま聞かせてくれ、と押す姿にせつない決意か勇気か、はたまたやけっぱちか…を感じます(解釈間違ってたらすみません)。

そして、『伊勢物語』では姿と行動だけで鳴き声については触れられていませんでしたが、この歌では仮屋で寝ている状態なので視覚情報はなく、鳴き声だけで都鳥だと聴き分けています。これは姿だけじゃなく鳴き声も聞き知っていないとできないことなので、和泉式部も詠歌の前から都鳥に親しんでいたと考えられます。ちなみにユリカモメの鳴き声って、ミャアミャアと聴こえるときがあるんですよね。この鳴き声をミヤと聞いたのが都鳥の名の由来であるとする説もあるそうです*12。説得力のある説だと思います。

詞書の「浜面(=海辺)」は、前後の歌(673-683)から判断すれば摂津国の海岸(現在の大阪湾)。ということは、都鳥は大阪湾には飛来していたのでしょう。この辺りなら京からも近いですし、住吉大社などもありますから、前にも参詣や旅行などで来たことがあったかもしれない。また、和泉式部が一時結婚していた橘道貞は和泉守を務めたこともあります*13。基本的には単身赴任だったにしても、和泉式部が和泉国に行ったことがあっても不思議はない。そこで都鳥と出会ったのかもしれません。

いずれにしても、和泉式部にとっての都鳥は、京でいつも見かける鳥ではなく、さりとて『伊勢物語』の京男たちにとってのような、初めて出会う見知らぬ存在でもなく、旅でよく出会う馴染みのある鳥だったのでしょう(私に置き換えれば、白鳥とかウミネコみたいな立ち位置か)。

 

(3) 清少納言と都鳥(『枕草子』)

清少納言も『枕草子』の「鳥は」の段(底本によって四一段だったり四八段だったりいろいろ)で、都鳥の名を挙げています。

この段は、家にある版とか図書館で借りたのとか幾つか見てみると、本によって違う部分もあるのですが都鳥についてはほとんどの本で、

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ほととぎす。くひな。しぎ。都鳥。ひわ。ひたき。*14

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などと名前のみ列挙される中に登場します(本によって鳥の名や順番に多少の異同あり)。他の鳥たちは開発が進んだ現代でもちょっと郊外に行けば見られる鳥ですから、平安時代の清少納言や読者たちにとっては見慣れ・聴き慣れた鳥であったはず。姿形だったり鳴き声だったり、チャームポイントの共通認識があるからこそ、コメント抜きでぽんぽんと名前だけ連ねている。その中に混ぜているということはおそらく、清少納言も都鳥のことは実際に見知っていたし、読者である京の貴族たちも知ってる前提で書いていたのでしょう。和泉式部とだいたい同じような距離感を持っていたと思われます。

 

それにしても、こうしてみるとやはり、都鳥のどこが良いと思うのか聞いてみたかったなあ…やはりミヤミヤ鳴くのがいじらしくてあはれなり、なのか、体が白くて脚と嘴がくっきり赤いのがいいのよね ♪ なのか、都鳥といえば伊勢物語の都鳥が最高、なのかそれとも…まあそんなありきたりなことをくどくど書くのはくっそダセェ…てことなんでしょうが。

 

(4) 平安歌人たちと都鳥

『伊勢物語を読み解く』には、(2)の和泉式部の歌以外にも、平安歌人たちの歌が取り上げられ、伊勢物語との関係が検討されています(同書P29-33)。伊勢物語の影響の有無はともかく、歌を見ると「都鳥は京にはいないものだということを、みんな知っている」という大前提は共通しているように見えます。恥ずかしながら知らない歌人ばかりだったのですが、やはりそれぞれに味わいがあります。

なお、『伊勢物語を読み解く』は伊勢物語がテーマなので伊勢物語からの影響度順に並んでいましたが、できる年代順に並び替え、引用した歌の表記や歌番号については、他の書籍等で直接確認できた場合はそちらの記載に依っています。

①  詠者不明(古今和歌六帖)

【古今和歌六帖 第二帖 1245】*15

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めづらしく なきもきたるか みやこどり いづれのそらに としをへぬらむ

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珍しく都にやって来た都鳥を詠んだ歌。この詠者も都鳥を知っていると同時に、都にはめったに来ないものだという認識も持っている。平安京が内陸といってもたまに迷い込んでくることはあったでしょうから、それを見て驚き嬉しくなって詠んだのでしょう。でも詞書も何もないので想像をたくましくすれば、ずっと音信不通だった知己が突然京にやってきて、思わぬ再会を喜んだ歌というセンもあるかも?(自信なし)

 

② 源順

源順(みなもとのしたごう)は平安時代中期の歌人(911生-983没)で、梨壺の五人の一人として万葉集の読解や後撰集の撰集にも従事したほどの人でしたが不遇の時期が長く、10年の散位の後、天元3年(980年)にようやく能登守に任ぜられました*16

【源順集 297】*17 

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天徳三年(←となっているけど上述の経歴や生没年からして正しくは天元三年(980年)だと思う…)の春、能登守になりて下るに、一条大納言の家の人々詠む、

越の海に むれはゐるとも 都鳥 都の方ぞ 恋しかるべき

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任地に赴く前に親しい人々に別れを告げたときの歌なのでしょうが、都鳥は「越の海にはたくさんいる」、「都を恋うる(が都には来れない)」という認識のもとに詠まれています。

それにしても、源順が能登守に任ぜられたのは70近い頃で、やはりというか3年後に下向先で亡くなっている。暖房もろくにない時代、そんな老人を寒冷地に送り込むのはどうなんだ!でも、無職よりはその方がよかったのかなあ…

 

③ 曽禰好忠

 曽禰好忠は円融・花山・一条朝あたりを中心に活躍した平安中期の歌人。伝記的な面での詳しいことはわかっておらず、歌の面では評価されつつも斬新な歌風を異端視される存在でもあったようです*18。丹後の掾(守・介の次の地位)の職に就いていたことがありますが*19、平安時代の有名な文化人たちが地方に下向するときの役職は守ばっかりなのを考えると、処遇面では恵まれなかったんだなあ…

 

【好忠集 542】*20

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八十島(やそしま)の 都鳥をば 秋の野に 花見て歸(かへ)る たよりにぞとふ

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「八十島」は「多くの島」、「たよりにぞとふ」は「ついでに尋ねる」の意*21

なんとこの歌は、冒頭に安積山*22、末尾に難波津*23という二つの超有名な古歌の31文字をそれぞれ読み込んだ連作*24のうちの一首。31首は桜の春から始まって夏秋冬、梅と新年で再び春に戻ってから恋の歌…という具合にテーマが移り変わっていくのですが、この歌は13番目、秋の歌です。そういう縛りプレイ?の歌なので、切実な心情の吐露というよりは、遊びの要素が強いのかもしれません。

八十島がどこを指すのかは定かではないけれど、大元が難波津の歌だし連想で難波の八十島*25を出してきたのかも。すこし前には「難波めの蘆間*26」とかも出てきますし。

いずれにしても海の近くであることは間違いないし、秋は渡りの季節だから考証的にも問題ない。「ついでに尋ねる」という気軽さからも、好忠にとっても都鳥は既知の鳥だったと考えていいのではないでしょうか。

 

 

④ 源頼政

源頼政は平安時代末期の武将。鵺退治を成し遂げた弓の名手だったことや、晩年に以仁王と組んで平氏打倒の挙兵をしたものの鎮圧され敗死したことで有名ですが、優れた歌人でもあったそうです(知らなかった!)。

下総守に任ぜられた父・仲政に同行しており東国へ向かう際の歌も残っています*27。下総に行ったわけですからそれこそ『伊勢物語』さながらに隅田川を渡るという実体験をしているはず…!

 

【三位頼政集296 旅雪、公通卿十首】*28

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舟渡す 角田河原(すみだかはら)に降る雪の 色にまがへる 都鳥かな

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ちゃんと季節が考証されている!(伊勢物語が悪いと言ってるわけではナイ)雪の季節であれば当然冬羽ですし、純白ではなく灰色の部分があることさえ、視界の悪い中で降りしきる雪の陰影を考えると、かえってピッタリ来る。

すみだ川とか雪の色にまがえる(つまり白)とか伊勢物語を思わせますし念頭にはあったでしょうが、伊勢物語をもとに頭の中だけで作った歌ではなく、若き日にこういう情景を目にしたこと、厳しい環境に耐えるその姿を、京をはなれ辺境にある自分と重ねたことを思い出して詠んだのではないか。そう考えると、なんだかしみじみと淋しさが増してきます。

 

(5) 大伴家持と都鳥(『万葉集』)

さて、時代を遡って奈良時代、『万葉集』にも大伴家持が都鳥について詠った歌があります。都鳥についての言及は上代で唯一*29、ということは最古の言及ということになります。もちろんこのときの「都」は平安京ではなく、奈良の都、平城京。

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【万葉集 巻二十(4462)】*30

船競ふ 堀江の川の 水際に 来居つつ鳴くは 都鳥かも

(舟が漕ぎ競う堀江の川の水際、この水際に降り立ち群がりながら鳴きたてるのは、都鳥なのかなあ)*31

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4460、4461と併せて「右の三首は、江の辺にして作る」という注がついていて、天平勝宝8年(756年)3月1日の聖武太政天皇の難波堀江行幸の際の歌だとわかります。孝謙天皇・聖武太上天皇・光明皇太后はこの年の2月から4月にかけて現在の大阪方面に長期行幸を行っていて、聖武の難波行幸もその一部だったようです*32*33

「堀江の川」は仁徳天皇が掘削させたと言われる水路で、大阪湾に突き出ていた半島(今の上町台地付近)を東西に貫いて流れていました。*34

この歌での都鳥は船の往来が頻繁な水路に入ってきて鳴いている。海からすぐ近くですし、船や人もユリカモメはあまり怖がらないのでなるほど、ありそうな光景。

そして家持はその姿を見、鳴き声を聞いて、あれは都鳥かなあ、と都を想いつつ詠っている。奈良の都も内陸で、ユリカモメの飛来は稀だったでしょうから、「都にはいない都鳥」という認識は平安時代と同じだったと思います。ただ、固定された都は藤原京からだし、奈良時代特に聖武天皇の時代は遷都しまくり、難波にも一瞬ですが京が置かれたこともあったので、「都鳥」がいつ頃どんな感じでイメージを定着させていったのかは気になる。

家持はこの行幸に先立つこと5年前の天平勝宝3年(751年)までの5年間を越中守として現地で暮らしていました*35。国衙も海岸付近にありましたから、都鳥(ユリカモメ)のことは良く知っていたはず。なので本当に都鳥なのかわからなかったわけではなく、あいまいな余韻を残すために疑問の形をとっているだけだと思います(都鳥じゃない別の鳥の鳴き声だったら、都を想う歌にならないし)。

 

直前の4461では絶え間なく奈良の都が恋しい、と大げさに詠っているし、4462も公務中の儀礼的な望郷歌と考えることもできます。でも、前の歌が引き受けてくれた分、直接的な感情表現がないこの歌が描き出す情景には静かな哀愁が漂っていて、これまでの家持の人生や行幸の頃の状況を考えると、それも腑に落ちる感じがするのです。

前述のように、家持にとって都鳥は旧知の鳥、もっといえば旧い友のような親しみがあったのではないでしょうか。なにしろ何度も一緒に(ミヤコミヤコと嘆きながら)冬を越した仲ですから。

そして万葉集の歌や詞書を読んだかぎりでは、越中での暮らしは充実したものだったように見えます。もちろん都に戻りたい、政治の中枢で活躍したいという気持ちが一番だったでしょうが、まだ若く将来への希望もある中で、宮中の権謀術数からいっとき逃れて小さいながらも一国の主となり、美しい自然と純朴な人々に囲まれた暮らし。都鳥は人生これからという若い頃、仕事に遊びに歌に、のびのび取り組んだ日々の思い出と共にある鳥なのでした。

翻って現在。続日本紀には行幸の前から聖武上皇の体調不良について記述があり、行幸から戻ってわずか半月後の5月2日には崩御*36。また、家持の政治的庇護者であった左大臣橘諸兄も行幸に先立つ2月2日に辞職を願い出て承認されています*37。先の見通しが暗いことは家持もひしひしと感じていたでしょう(じっさい、聖武の崩御の翌月、6月17日にはもう、一族のひとりが讒言によって出雲守を解任されたのを受けて家持が「族(うから)を諭す歌(4465)」を詠むという事態になっています*38)。

行幸に同行していた家持の胸には、聖武の健康への心配、自分自身と一族の先行きへの不安と、政治的に巻き返して主導権を握るのはもう無理だろうという無力感が渦巻いていたことでしょう。

そのとき聞こえた都鳥の鳴き騒ぐ声。久しぶりに聞くその声に、今現在の難波と奈良の都の隔たりだけでなく、かつて越中で感じていた都との隔たりが、そして越中での日々と今との隔たりが蘇ってきたのではないでしょうか。

表向き詠われた旅先(難波)→都の想いの底には、

現在(都びとである自分)→過去(越中にあって都を想っていた自分)

というノスタルジーも含まれている。そして過去が二度と戻らないように、家持の野心や志も、満たされ報われることはない。それがわかっているが故の憂愁なのかな…と思うのです。

 

とまあ、妄想をたくましくしてみました。

 

(6) 都民の鳥

時は現代。

ユリカモメは昭和40年に東京都の鳥に指定され*39、名実ともに都鳥となりました。「みやこの名を冠しながら都にはいない」というひねりや哀感はなくなりましたが、そのぶん明るく軽快なイメージになってるんじゃないかな。新橋―豊洲を結ぶ新交通ゆりかもめの存在も大きいでしょう(めったに乗らないので実際のところがどうなのかは知らないけど…)。イメージキャラクター・ゆりもは夏羽なんだねー。嘴と脚も涼やかな青だし…

www.yurikamome.co.jp

 

 

 

 

というわけで、今回調べてわかったこともいろいろあって面白かった!鎌倉時代以降も含めてもっといろいろあるんだろうけど、疲れたのでとりあえずこの辺で。お読みくださった方も、わけわからん長文にお付き合い下さりありがとうございました&お疲れさまでした。

また新しくわかったことや間違っていたこと、考え直したことがあったら、追加修正していきたいと思います。

 

(注)別ブログ「生きものアルバム」にも同内容の記事を掲載しています。

 

*1:実は現代でもミヤコドリという名前の鳥はいるのですが、

www.suntory.co.jp

古典文学の中のミヤコドリじゃなくユリカモメだというのが定説になっている

*2:『古今和歌集』にも同様の歌が在原業平作として、ほぼ同じストーリーの詞書と共に収録されています。

*3:中野方子、『コレクション日本歌人選004 在原業平』、笠間書院、2011年 P101-103

*4:大津有一校注、『伊勢物語』、岩波書店、1964年、P15

*5:

www.geo-front.co.jp

*6:

www.pref.kyoto.jp

*7:Bird Research News Vol.5 No.1

*8:『伊勢物語を読み解く』P40-41では、都鳥を取り挙げた歌などが幾つもあって都人は都鳥を知っていたらしいのに、伊勢物語の男たちは知らなかったことになっていることについて、「当時の都人が「都鳥」と呼んでいたのは、今でいうミヤコドリであった」として、都人にとっての都鳥=ミヤコドリ、東の人にとっての都鳥=カモメの類、という食い違いが生じていたためと結論していますが、干潟や海岸というミヤコドリの生息域を考えると、内陸の都人たちがミヤコドリに(ユリカモメ以上に)親しんでいたとは考えづらいので、その結論には私は賛成できない。個人的には、「昔男」たちが誰ひとりとして都鳥を知らなかったのはストーリー展開の都合によるもので、昔の話だというワンクッションがその不自然さを薄める役割を果たしているのだと思っています。「今じゃ常識だけど昔の人は知らなかった」、「昔は常識だったけど今の人は知らない」どっちも何となく納得させられそうな話ですから。

*9:清水文雄校注、『和泉式部集 和泉式部続集』、岩波書店、1983年、P91-92

*10:圷美奈子、『コレクション日本歌人選007 清少納言』、笠間書院、2011年 P96-97

*11:清水文雄校注、『和泉式部集 和泉式部続集』、岩波書店、1983年、P114。なお、『伊勢物語を読み解く』で 紹介されているのとは底本が違うのか、歌番号や詞書などが異なりますが、直接参照して確認できたこちらに依りました。

*12:伊藤博、『萬葉集釋注 十 巻第十九 巻第二十』、集英社、2005年、P631-632

*13:馬場あき子、『和泉式部』、美術公論社、昭和57年、P24-27

*14:池田亀鑑校訂、『枕草子』、岩波書店、1962年、P72

*15:

古今和歌六帖全注釈|お茶の水女子大学E-bookサービス

*16:『和歌文学大辞典』、古典ライブラリー、平成26年  P526

*17:『伊勢物語を読み解く』P31

*18:久松潜一、松田武夫、關根慶子、青木生子校注、『日本古典文学大系80 平安鎌倉私家集』、岩波書店、昭和39年 P6

*19:同上

*20:同書P124

*21:同書P124

*22:あさかやま かげさへみゆる まのゐの あさくはひとを おもふものかは

*23:なにはづに さくやこのはな ゆごもり いまははるべと さくやこのはな

*24:同書P122-126

*25:

www.city.osaka.lg.jp

*26:へつくりに知らせずもがな難波めの蘆間をわけて遊べ鶴の子 538

*27:多賀宗隼、『源頼政』新装版第1刷、吉川弘文館、平成2年 P39-40

*28:『伊勢物語を読み解く』 P29

*29:*12  P631

*30:同書P628

*31:同書P630

*32:同書P623-624

*33:宇治谷孟、『続日本紀(中)全現代語訳』、講談社、1992年 P128-129

*34:参考サイト:

www.nakanoshima-style.com

*35:小野寛、『コレクション日本歌人選 042 大伴家持』)、笠間書院、2013年 P108-109

*36:*33 P127-130

*37:同書 P128

*38:*12 P637-639

*39:

www.metro.tokyo.lg.jp

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