呪術廻戦第236話「南へ」①~これは果たして妄想か、現実か~ ※ネタバレ注意

ついに決着した最強対決。過去設定の応用問題が散りばめられたバトルについての感想とか、五条と宿儺の最強シンパシーってどうなのよとか、いろいろあるけどひとまずおいといて。

 

冒頭で五条は「俺の妄想であってくれよ」と言い、夏油は どっちだっていいじゃないかと返す。そして最後の「僕の妄想じゃないことを祈るよ」で場面は空港を離れ、現実世界に戻ります。

 

果たして空港での出来事は五条の妄想なのか、現実(の死後の世界)なのか。

夏油が言うようにどっちとも取れそうではありますが、会話の中で出て来た、

 

①七海が夏油に言った「もう五条さん1人で良くないですか」

②七海の最期に灰原が出現したこと 

③移住先についての冥さんのアドバイス  

 

この3つを五条は見聞きしていないし、伝聞などで後から知る可能性もまずない(特に②は灰原が虎杖にも見えてて、後になってあれは誰だったんだ~とか言って突き止めようとしない限りあり得ないし、①も夏油や七海が五条に告げたり第三者に漏らすとは思えないので五条に伝わりそうにない)ことを考えると、五条の妄想ではなく、死後の世界説に傾きます。

では、妄想っぽさを醸し出している高専生時代風味と周囲の優しさというかきゃっきゃうふふに対する違和感(現世はあんなことになってるのに!)についてはどう考えればいいのでしょうか。

まず高専時代化について。

人間の一生は生まれてから死ぬまでの時間の厚みがあります。生者の場合は時間が積み重なっていった一番上、今の自分しかありませんが、死者の場合はおそらくその制約がない。すべての時点の自分が同時に存在し、いつの自分を見せるかは自由自在、と考えれば、11年前のあの頃の姿で揃って登場することは可能だと考えられます(そうでないと、死期が大幅にズレた人同士の再会とか、妙な塩梅になる)。

なぜ最新の今の五条ではなく高専生時代なのかといえば、やはり一生の中で最愛の、輝ける「青の時代」だったからだと思いますが、例えば虎杖がこの世界にやって来たなら五条もアラサー目隠し教師の姿で接するでしょうし、七海も一緒に出迎えるならスーツにサングラスのナナミンとして現れるでしょう。「お前がいたら満足だったかもな」のときの夏油の袈裟姿は、あの場面で五条が思い描いた願望なので、去年の百鬼夜行の時の夏油の姿を元に、離反せず一緒に大人になってくれたif夏油を想像して味方側の構図に当てはめているのでしょう。芸の細かさに涙が出ます…キモいといえばキモいけど。

 

そして周囲の態度について。

これについては、生前にはあった心の鎧や忖度、現世への執着心などが失われているために、生前とは微妙にスタンスが変わっているのだと考えることができます。

もしも、生きていたときの感性のまま死後の世界から現世を見守らねばならないとしたら、死してなお苦しみや焦燥を味わい続けなくてはなりません。現世が理想郷にならない限り、死後の世界でも地獄が続いてしまいます。死者同士の人間関係についても同様のことが言えます。それを回避するために、魂の在り様も少し変化するのではないでしょうか。

生前だったらいくら五条でも、生き物としての線引きとか侘しさとか、夏油にも誰にも言わなかっただろうし、勝ったならともかく負けといて「楽しかった。宿儺に申し訳ない」とはさすがに言えなかったでしょう。

夏油も生きているうちは「妬けるね」なんて、五条が自分と対等でないことを認めつつ、対等でありたかったという「愛」をストレートに口に出すことは、おそらくできない。

自我や個性は保たれているけれど、心の壁は薄くなり、生前のような激しい感情も消えて、穏やかな波のように息づく。現世の人間から見ればそれは寂しいことではあるけれど、五条宿儺とその他の人間の間にぶっとい線が引かれているように、生者と死者の間にも、もしかするとそれ以上にハッキリとした線引きがある。死者は生者の世界に(基本的には)介入できないし、何もできないのに楽観したり悲観したりするのも無責任というものです。空港の人々が残された生者たちを気にしてないように見えるのは、そういう彼岸と此岸の隔絶故、ではないかなあ…

少なくとも私は、その線の向こうで穏やかに笑ってバカ話してくれている方が、後悔に苦しんだり、務めを果たせ先へ進めと圧をかけてくるよりもずっといいと思う。

 

 

…というわけで、私は「現実の死後世界」説を採ります。

そして五条の「妄想であってくれ」が「妄想でないことへ祈る」へと変化したのは、空港での会話を経て初めて、自分は独りじゃなかったこと、そして自分も仲間たちも、その死に悔いはなかったことに気づき(明示されてるのは七海だけだけど)、そこに心地よさを感じたからのだと思います。だからそれが自分の独り善がりな妄想ではなく、現実であることを望んだ。

 

「正しい死」だったと、私は思います。

 

 

 

 

 

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