『進撃の巨人』終了に寄せて、少しだけ

連載終了から10日。一昨年の秋頃にハマって久々にコミックスを全巻揃えて一気読み!してから1年半ほど、十分楽しませてもらったし、考えさせられることも多く、感謝しています。とにかく、あれ以上の仲間や家族の死がなく、巨人の呪いからも解放されてよかったと思うし嬉しい。そこは素直な本音です。うるっと来たところもあったし、笑ったところも多々あった。

 

だけどやはり、全体としては受け入れがたい最終回だった。コミックスで加筆修正があるとのことなので、そちらを読まないと自分の中でも最終的な結論は出せないと思うけど…

 

一番納得いかないのはあれですね。

 

悪魔だとか過ちだとか言葉はそれらしく飾っても、エレンがやった大虐殺は仲間たちに許され受け容れられ、未来への礎として認められてしまった。しかもこれまでのすべてがエレンの計画どおり、掌の上のことだったというのだ。

反転また反転で進んで来た進撃なので、ここまで(ダークではあるが)ヒロイックに描かれていたエレンが、最後には否定あるいは相対化されるものと期待していたのだけど(終盤懸念していた通り)そうはならなくて、エレンのやったことは「許されないけど」というおよそ無意味な枕詞つきで肯定されてしまった。

エレンはそのヒーロー性をいささかも損なわれることなく、不気味で得体の知れない激しさと仲間思いの犠牲的献身、さらには不器用な若者の微笑ましさまで併せ持った、矛盾に満ち、謎めいた美しい存在として、巨人のいない世界という「遺産」を残して死に、死して白き鳥となって自由に空を舞い、愛しい人の元を訪れ、二人だけの約束を果たす…

 

この無批判な美しさに、「ガッカリした」わけです。

過去の発言などを読むと、「世界を踏み潰してまっさらにする」という方向性は連載当初から、作者の内的な欲求の帰結としてあったようで、それを形にすること自体は何ら問題はない。

でも、それをやるなら徹底して、無意味で有害な行為、最愛の者たちからも拒絶され忌避される行為として描かなくてはらなかったと思う。どうにもならない人間の愚かさや醜さ、自他を破滅へと導く衝動を描くのも文学であり芸術だろうがそれは、ありのまま愚かなものとして、醜いものとして、破滅をもたらすものとして、描いてこそ(もちろん純粋なエンターテイメント、単なる娯楽ですよ、というなら、「そういうもの」として倫理を棚上げして楽しむ作品もあるだろうが、私は進撃がそういうものとは思わなかった)。

 

マーレ編以降、現実世界の近現代を想起させる描写が多くなり、差別やジェノサイド、多世代にわたる憎しみの連鎖など、今日的な課題が前面に押し出された。差別と憎しみの連鎖に関しては、実際に解決できるかどうかは別として、はっきりと否定されるべき、抜け出すべきものとして描かれていた。だが地ならしに関しては、その悲惨さは描かれているものの、加害者であるエレンの、やらなければならなかった切実な理由や葛藤はそれ以上に詳細に、情熱をもって描かれていた。そして地ならしを完全否定するハンジは無力な理想論者であるかのように描写され、最終決戦の場所に辿り着くこともない。

 

作者の力量をもってすれば、地ならしについても教科書的になることなく否定することは可能だっただろう。あえてそれをしなかったのは、どうにもならない破壊衝動を抱えたエレン(=かつての自分自身)への愛と許しだったのではないか。そう思うと(それは作品の瑕疵になるので)とても残念で、同時に痛ましい気持ちにもなる。

 

 

諌山先生お疲れさまでした。

 

 

 

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