三四郎(夏目漱石/新潮文庫)

実は今まで読んだことがなかったのですが、森鴎外の「青年」と読み比べると面白い、というのを某所で言われ、今更ながら手に取ってみました。

物語の中心は、大学入学のために上京してきた小川三四郎(23歳)が、偶然の出会いで強い印象を残したヒロイン美禰子と縁あって再会し、徐々に親しさを増していく中にあっても彼女の想いがどこにあるのかわからず、思い悩む…という青春の恋の悩み。大学の講義に出たり、知己を通じて学問やら文学やらの片鱗にちょこっと触れたり、調子のいい友人に振り回されて困った羽目に陥ったり…などもあるものの、大した事件は起きない(大事件に発展するかと思われたある出来事も、読者が危惧するような方向にはいかず、あっさり片付けられる。)のですが、やはり面白い♪

三四郎は特段の取柄もない田舎者。周りに流されやすく、行動には主体性がない。かといって行き着くとこまで流されて~とまでは行かず、中途半端。やたらと周りをあれこれ気にするくせに、いっぱしに自惚れはあるわ、時として驚くほど鈍感で無神経だわ、個人的な意見を言わせてもられば「イラッとする奴」です。ですが、その彼が大学の空気、都会の空気にあてられてふわふわしたり、浮薄な友人(悪気もないが誠意もない)に振り回されたり、手前勝手な妄想に嬉し恥ずかししたり(青春だなあ)…という有様を見ていると、こっちもハラハラ、気が気じゃない。でも、そんな三四郎も、美禰子への恋が終わりに近づく頃には、かなり主体的な言動を見せるようになるのだから、考えてみればだいぶ成長した、と言わなくてはならないのかな。

対する美禰子は大学の研究者や高校の英語教師、画家などとも以前から親しくしている教養ある女性で、男性に対しても気後れしたり遠慮したりすることなく、(知的にというか人間としてというか)対等に振る舞う。言いたいことを言い、思う通りに振る舞っているようなのに、彼女の真意は見えにくい。

読んだ印象としては、三四郎に対してはある種のシンパシーを感じてはいたけど、夫として尊敬できる男ではないから恋愛とか結婚とかの相手ではない。以前から兄妹ぐるみで付き合いのあった野々宮も、研究者としては立派だが美禰子の手を取る積極性はないので見限り、別の男を選んだ。結婚すること自体は、美禰子の兄が結婚することになったため、今のままではいられないと覚悟を決めたためのものでセカンドベストの選択。本当はまだ迷いの中、燃えるような夕陽に向かっていたいけど、それはもう叶わないから、その瞬間を画の中には留めておこうとした…ということなのかなと思いましたが…(だとすれば「三四郎」は美禰子にとっても青春小説(青春の終わりを描いた)であることになる。)「Pity's akin to love」や「ストレイ・シープ」、「ヘリオトロープ」などのキーワードや、与次郎や広田先生の恋愛談義など手がかりらしきものも散りばめられていますが、これだ!という決め手はなく、読み方によってはまるで違う解釈になるかもしれません。また時間を置いて再読したい。

 

ところで、ラスト近く、三四郎が教会に行った美禰子を外で待つ場面で、中から聞こえてくる讃美歌の大合唱をきいて「美禰子の声もそのうちにある。」と考えるくだり。これだけなのに、この美しさは何なんだ…

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