固有名詞VS普通名詞~『三四郎』と『青年』

「三四郎」に続き「青年」(森鴎外)も読んでみました。

うーん…「青年」も端整で美しい、はっとするような描写は多くて素晴らしいと思うんだけど、小説として、人間を描く、青春の苦しみを描くという点では「三四郎」に遠く及ばない、と思う。

「青年」は「三四郎」連載(朝日新聞)のを後を追う形で「すばる」に連載されたとのことですし、作中にも漱石をモデルにした人物が登場したり、人物配置やエピソードも「三四郎」に似ているので、「三四郎」を意識していることは間違いない(パクリとかいうんじゃなく、同じお題でやってみました「究極VS至高」みたいなイメージですハイ)。でもひとつの作品としては「三四郎」に及ばないまま、連載中絶に近い形で終わっている。むしろ鴎外が先に「青年」を書いて、その後に「三四郎」が出て来たのなら、すんなり受け入れられる気がするんですが…

三四郎の悩みは美禰子という個に惹かれた個人の悩みだけど、「青年」の主人公・小泉純一の懊悩は(一人の女を対象にしているにもかかわらず)なんか抽象的・一般的なものに感じてしまう。でも「青年」というタイトルからして、鴎外は抽象的・一般的であることを志向しているようにも思えるし…鴎外は何がしたかったのか?単に「三四郎」に対抗しようとして敗れた、とは思えない。謎だ…

スポンサーリンク