今まで参考書や問題集にあった一部引用などを断片的にしか読んでなくて、彰子の皇子出産部分と有名な才女批評部分がどう繋がるのかわからなかったけど、通読して解説も読んでみて、初めて理解できた。
皇子誕生にまつわるあれこれを記録した祝賀的部分は主家(道長か彰子)に献上するため記録係として指示を受け、執筆したもの。
「紫式部日記」は紫式部がとっておいた上記記録の控えを元に、場面場面での心情や、皇子生誕の時系列から離れた受け手(解説では娘・賢子を想定)へのアドバイスなどを書き加えたものだというのだ。
もちろん単なるハウツー指南本ではなくて、悩みや苦しみ、寂寥感やそれを客観的に見つめる自分自身の姿も描かれていて、それを受け止めてくれると信頼された賢子もおそらく只者ではないのだろうと感じられるのだが、それはそれとして十代の娘に対する戒めと考えれば、辛辣な才女批評や同僚批評も「ああなってはいけない」「こうあるべき」という親心として納得がいく。有名な清少納言批判も、好きじゃないし反撥もあるのも確かだろうけど、人を惹き付ける力、才ある女房がハマりやすい陥穽を感じるからこそ、言葉を尽くして批判しているのかもしれないと思ってみたり。
先例を知っていることが非常に重視されていた平安時代、男の日記は有職故実を事細かに子孫に伝え、家の優位性を保つことが目的だったという。子々孫々まで読み継がれることが想定されていたはずだ。
紫式部日記も、後継に伝えるという点では同じだけど、相手はおそらく賢子限定。個人的な愛と信頼関係に基づくもので、こんなに広く読まれるようになると想定してはいなかったんじゃないかな。いや、でも…文章の力をよーくわかってる人だっただろうし、賢子管理下にあって自分も生きているうちは秘匿されていても、いずれは「紫式部が書いた日記だって。結構ズバズバ書いてあるみたい」「えー貸して貸して。内容は秘密にするからさあ」とか評判になって世に流出していくかも、って思ってはいたかもな。
日記本文の中では、主人である彰子を愛おしく思う真情や、鬱々と物思いに耽りながら水鳥がのんきそうに遊んでいるのを見て、「(水鳥がのんきそうに見えるというけど)私だって人からみれば豪華な職場に浮かれているように見えるだろう。(とすれば)水鳥だって大変なはずだ」と自省する場面、道長の妻・倫子に言及するときの微妙な筆致(道長との関係や紫式部が曾祖父ぐらいまではかなり偉かった没落貴族で、倫子とはまたいとこに当たるとなどを考え併せると、ちょっとヒェッてなる)などが印象に残りました。
平安時代の歴史や人物、日記文学全般の知識がもっとあればもっとよく理解できて面白いんだろうなー。『光る君へ』ファンとしてはやはり、次は『蜻蛉日記』に行くべきか?