古いシルクハットから出た話(アヴィグドル・ダガン/成文社)

図書館のチェコ文学の棚でふと手にとって開いてみた1ページ目に「東京の高島屋でそれ(シルクハット)を買った」とあって、どういうこと??と中も良く見ず借りてきた本です…が面白かった!

語り手である「私」は、今は引退した外交官。シルクハットは毎年毎年の新年と天皇誕生日(当時のことだから4月29日ということになる)に高島屋の貸衣装部から借りていたのを、買うよりかえって高くついていますよと親切な高島屋の担当者から忠告されて購入したもの。そして引退後の今となっては唯一手元に残った外交官時代の相棒であり、いくつもの忘れていた物語を取り出す容れ物、手品の道具としてのシルクハット(じっさい、孫相手にはそういう使い方もしている)なのだ。

更に読み進めていくと、「私」がチェコ出身のユダヤ人で、共産化したチェコスロバキアを逃れてイスラエルに移住してきたことがわかる。

解説によれば作者ダガンも、オーストリア=ハンガリー帝国支配下にあったチェコで生まれ育ったユダヤ人で、シオニスト活動をやったりチェコスロバキアの亡命政府に参加したりして、第二次大戦後もチェコスロバキアの初代大統領の息子の側近として働いていたが、チェコスロバキアの共産化により国内での立場が悪化し1949年にイスラエルに移住。チェコスロバキア時代の経験を買われて外交官を務めることになったのだという(したがって作者の母語はチェコ語、この物語もチェコ語で書かれており、だからチェコ文学の棚にあったのだ。)。ちなみにダガンの任地も作中に登場するものと一致しているそうで、当時の外交官としての仕事や生活がベースになっていることは間違いない。

もっとも、何しろ古いシルクハットから手品のように出る話のこと、実体験に即した「秘話」というよりは、どこかファンタスティックな「物語」である(超自然的な事象は発生しないが)。ラインナップは、

「神様への手紙」(神様宛てに奇妙な手紙を書く羽目になった話。スターリン体制への皮肉も/ビルマ)

「ジェンティーラ」(美しい外交官夫人の秘密と恋/ベオグラード)

「シレンカ」(イラン大使(パーレビ朝時代のですね)と売出し中の美人女優シレンカの恋。若い頃貧しいユダヤ人の家に下宿していた中国の大使との交流や、深刻なアイデンティティの危機を迎えてイスラエル移住を決意したポーランドのユダヤ人一家の話など、小エピソードも印象的/ワルシャワ)

「通訳に関する間奏曲」(フルシチョフやネパール首相コイララの逸話など、通訳への懐疑と必要性に関する見解。実話に近そうな感じ)

「失踪した大使」(イギリス人老大使の矜持/オスロ)

「レイキャビクでの祈り」(ユダヤ人と外国人の恋と障害を、祖父母・孫の新旧世代にわたって描く。旧弊な律法主義への静かな怒りが感じられる/レイキャビク)

「予感」(自民族が過去に犯した罪と後の世代が受ける報復に悩むトルコ人外交官の話)

「優等生」(ソツのない優等生外交官が囚われた過ちとその結末/東京)

「プラターでの出来事」(諸国民の融和の道を模索した外交官の孤独/ウィーン)

「七枚のスカート」(外交官仲間の集まりでポルトガル人外交官が披露した、小さな漁村での悲しき夫婦の物語)

 

全体の語り口は軽妙でユーモアを感じさせますが、ストーリーとしては悲しい結末を迎える話がほとんどです。それでいてあまり暗い感じがしないのは、エピローグにあるように、他の職業のように成果が確実に確認できるものではないが、無用のものということもできない、というささやかな自負と未来への希望(今この希望を持つのはかなり難しくなっていますが…)によるものなのかもしれません。

 

ところでこの作品、一篇ごとの訳者がバラバラで、どういうことだろう?と首を捻っていたのですが、「あとがき」に経緯が書かれていました。東京外語大名誉教授だった千野栄一先生が翻訳を計画しながら病に倒れ、先生の依頼で当時先生が講師を務めていた朝日カルチャーセンターのチェコ語クラスの生徒の方々が手分けして翻訳を進めていたが途中で先生が他界。各人がバラバラに翻訳作業を進めていたところ、先生の東京外大での教え子である阿部賢一氏が原稿をとりまとめ、未完結部分を完結させて出版に漕ぎつけた…という経緯があったそうです。研究や執筆を弟子が引き継ぐ、ということはしばしばあることかもしれませんが、こういうケースは珍しいのではないでしょうか。関係された方々それぞれの本作への思い、そして互いの信頼を思わずにおれません。

 

【おまけ】

「シレンカ」の末尾にはワルシャワ市章が掲載されています(盾を持ち、剣を振り上げた人魚。Wikiにも載ってる)。これが「シレンカ」で、ヒロイン・シレンカの愛称は、美しく快活で、ちょっといたずら者のこの人魚からとったもの。これは惹かれますね…と更に調べると、こんなお茶目な伝説が☆勇壮な銅像とはちょっとイメージ違いますが、イイなあ…

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