ジュール・ヴェルヌの冒険科学小説の古典『地底旅行』の続編。
ときは明治。腐れ縁の友人・富永丙三郎の口車に乗せられた「わたし」こと挿絵画家・野々村は、富士山麓で失踪した理学博士稲峰とその娘都美子の行方を追って、丙三郎、そして稲峰博士の弟子で、都美子に恋する水島鶏月と共に、富士山麓の洞穴から地底探検の旅に乗り出すことになる。
ちなみに『地底旅行』(私は未読)は、リデンブロック博士の地底旅行に同行した彼の甥が発表した手記、という体裁をとっているそうで、『新・地底旅行』では、一般にはホラ話とされていたこの手記を稲峰博士だけが真実と認め、自らも娘を連れて地底旅行に旅立ち、消息を絶った、という設定になっている。
ところが、探検隊の集合場所に指定された富士山麓のホテルへ向かう道中から早くも不審な事件が発生、ようやく辿り着いたホテルで紹介された鶏月も、いかにも~な奇矯な言動。さらには主人父娘の行方を捜すべく追って来た稲峰家の女中・君島サトまでもが飛び入りで探検隊に加わり、一行は地底を目指す。
果たして地底世界は本当にあるのか、そこに潜むものたちは、行方不明の稲峰父娘は、道中で出会った数々の不思議は…?
ついに「そこ」へとたどり着いた彼らの眼前には、想像を絶する世界が広がっていた…
どうしても「地底」旅行というと、少なくとも目的地にたどり着くまでの道中は、光もないし風通しも悪くてじめじめと辛気臭いし、秘境探検ものにありがちな人間同士の争いだの裏切りだのもおこりそうで(いや実際そうではあるのですが)、暗い感じがつきまといがち。でも本作は、多分に戯画化された登場人物の個性と、「わたし」のあっけらかんとした語り口とが相まって、むしろ楽しい。
口達者で号令をかけるのだけは得意だが何をやらせてもダメ、性格も軽薄で偉そうで強欲なくせに臆病で変わり身の早い…つまりほとんど良いとこない、にもかかわらず憎めない丙三郎はもちろん、十七という若さで何をやらせても超有能(本当のところ、あまりに有能なので何かあるんじゃないかと思った…)、一途で実直でありながら抜け目なさ、はしっこさも兼ね備え、今いち頼りない大人の男どもに冷静にツッコミを入れたり自分が先に立って行動していくサトにもニヤリとさせられる。
野々村の一人称を取る語り口も、諦観してるんだかしてないんだかわからない(この性格はクライマックスに少しかかわってくる)ちょっと自虐的だが湿っぽくはないユーモアがあって結構好きだ。画家という性分のせいか、自分を含めた一行を俯瞰的な目線で見ていることが、温かみは残しつつも突き放した滑稽味を生んでいるのかもしれない。
その一方で、そういう「奇妙な世界を行く、ドタバタ珍道中」の中に時折り顕現する、大いなる世界の美しさ、恐ろしさ、残酷さは強い印象を残す。(ネタバレになるので具体的には書きませんが、脳裡に焼き付いて離れないあの最期。何のために生き、死んでいくのか。「なんでこんな…」と思ってしまう。でも翻ってみれば、我々地上人の一生が、本当にマシと言い切れるのか?という疑問も、なくはないのだ)
地底にはもちろんヴェルヌの『地底旅行』に類する失われた古代世界があるのだが、それだけにとどまらず、より大きな世界に繋がっていて、それによってレトロでファンタジックでありながらSF色の強い作品になっている。
後書きを読むに作者の別の作品とも繋がっているらしい(作中で唐突に「苦沙弥先生の猫」が登場したときは何事かと思ってしまいましたが後書きまで来て納得)。ヴェルヌの原作ももちろんだが、こちらも読んでみたい。