沖縄旅行アルバム④~戦争と平和編

ひめゆりの塔と米軍基地は元々予定していましたが、戦争やアメリカ統治時代の記憶が至る所に残っていました。

 

1 海軍壕公園

旧日本海軍の司令部壕を中心とした公園で、那覇市の南側に隣接する豊見城市にある。

この高台の下に壕が掘られていた。

 

高台の上から。西は海側で、那覇空港とか瀬長島ウミカジテラスとか(たぶん)がキラキラしてる。

 

海軍戦没者の慰霊塔

 

海軍壕入口。階段を下りていく

 

人力で掘った…

 

暗号室

 

司令官室。白い壁についた傷跡は、自決のときの手榴弾の弾痕

司令官の自決は、部下が脱出完了するか、降伏して受け入れられてからにして欲しい。

 

司令官室や作戦室は重要な施設ということで白いコンクリート漆喰で綺麗に固められていたが

 

他は下士官室でもこんな感じ

寝床があるだけマシなようで

 

一般兵の部屋(部屋!?)

 

(この辺に負傷兵が多くいたのでたぶん)医療室

 

状況が悪化してくると通路にも兵士が溢れていたらしい

 

暗い壕の中を歩き続けていたので外光が見えるとホッとするが、当時はここから出撃したわけで、死に近い場所でもあった。

 

もともとこの部隊は、陸軍の撤退を援護するために投入された。しかし両者の連絡に齟齬があったのか、陸軍の撤退予定日より早く海軍が撤退してしまい、慌てた陸軍に呼び戻されるという信じられないようなミスがあった。原因は今も特定されていないようだ。

 

大田司令官が自決の前に海軍次官あて打電した電文が慰霊碑の脇にあった。

末尾には「県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」。この電文をどう評価するかは別として、この懇願に対してすら、中央は今もってまともに応えてはいないと思う。ましてその後に沖縄が受けた戦争被害や戦後の苦難を加算したら、何も返せていないに等しいのではないか。

 

2 ひめゆりの塔・県営平和祈念公園

どちらも沖縄本島の最南端の糸満市にある。

 

高い尖塔のイメージを持っていたが違ってた

せめて献花を

ひめゆり学園は沖縄県立高等女学校と、師範学校から独立した女子部が合併してできた学校で、現那覇市の安里にあった。敗色濃くなった戦争末期、軍のための作業に駆り出され、上級生たちは南風原にあった陸軍病院の看護業務のために動員されて来た。

 

敷地内にある「ひめゆり平和祈念資料館」は殆どが撮影禁止になっていた(入口にあったこれはOKだったはず)。

徴用される前の学生生活についての展示もあって*1、「ああ、女学生だな~」と微笑ましくなる学校生活の断片が多く見られる。

教科書や道具、学校行事。本や小物、先生たちのあだ名(ペンギンにペスタロッチ、クラーク・ゲーブル*2とか…)。私もいちおう女学生だったことがあるからだろうか。置かれた状況や考え方は大きく違うが、それでも懐かしい何かが確かにある。それが徐々に、次いであっという間に地獄絵図に塗り替えられていくことに、「何でだよ!」という気持ちになるのだ。

 

映像では生存者の方々の凄惨な経験が自らの口で語られ、亡くなられた方の氏名と(あれば)写真、その後の消息を一人一人まとめたパネルが並ぶ展示室もあった。皆、こんな辛い生き死になんて、しなくてよかったはずなのに。

 

 

平和祈念公園は、ひめゆりの塔から東へバスで15分、徒歩1時間くらいの海沿いにある。途中歩いてみよう!と思いたったのは大失敗で、辿り着いたときにはかなりヘロヘロになっていた。

 

平和祈念資料館入口

沖縄戦の概要は他でも見たけれど、戦後の米軍統治や復帰運動については知らないことが多かった。全体として大混雑だった上にかなり疲れてたので、ベルトコンベア式に流れていかざるを得なかったのがちょっと残念。

未来志向というか、世界の子どもたちとの友好、みたいなコーナーもあり、若者や子どもを意識した展示になっているのかなと感じた。

 

戦没者の名を刻んだ石碑が果てしなく続く

 

韓国人戦没者慰霊碑

韓国併合で植民地化されることがなかったら、少なくともここで死ぬことは、大日本帝国の人間として生命を奪われることは、なくて済んだ。

 

「平和祈念堂」遠くから見えたのはこれだな

絵画などの中の展示も見たかったけど、学生の団体さんが入って説明を聞いている最中です、という話。入ってくのもきまり悪いし、もう疲労困憊状態だったのであきらめる…

 

海はひたすら青く、美しかった

 

3 嘉手納基地

那覇バスターミナルからバスで2時間弱。嘉手納町にある。

 

道路を挟んで基地の隣に立つ、「道の駅かでな」。上の展望台から基地を臨むことができるので、まずはそこから。

 

広い。地平線の方の建物も軍の施設だ

広すぎる…

 

短い滞在時間の中でも何度か離発着があった。みな騒音は酷いのだが、なかでもビリビリと肌を刺すような不快さがあったのは、確かこれだった。

 

コイン式望遠鏡がある。誰も使ってないが

 

「この公園で見られる生きものたち」パネルを連想してしまって、何ともいえない気持ちになる

 

道の駅には展示室もあり、基地の歴史や現状などがパネルで解説されていた。

 

道の駅1階のバーガーショップ。美味しかったけど食べきれなかった…

 

こういう独立行政法人もあるんだ…確かに、何もなくても困るか

 

外周は高いフェンスと鉄条網で囲われている

 

 

ドローン規制区域はさらに広い

 

4 普天間飛行場

沖縄県のHPでは普天間基地、宜野湾市のHPでは普天間飛行場となっているが、ネットで調べた限りでは正式名称は飛行場の方らしい。嘉手納基地と那覇の中間ぐらいの位置にあり、宿からはバスで40~50分くらいだった。

 

 

鮮明な青色と球体に近いフォルムが印象的な嘉数高台(かかずたかだい)展望台。

ここから普天間飛行場を展望できる。

 

やはり、この青や球形は地球をイメージしたものであるようだ。

 

ぐるぐるとらせん階段を登り切り、展望スペースへ

 

この地も沖縄戦で激しい戦闘があり、多くの犠牲者を出した。戦火と復興を詠った「嘉数高台の詩」の石碑。

 

眼下には静かな街並み。しかし北側を見れば

 

ここも、広いな…

 

嘉手納もそうだったけど、こうして見ると歪としか言いようがなく、仕方ないで済まされる話ではないだろう。ましてこれは国有地ではなく、9割以上が強制的に立ち退きさせられた民有地だというのだから、尚のこと。

こうすりゃいい、というのがあるわけではないが…

 

5 いたるところに

<嘉数高台公園>

京都出身の沖縄戦戦没者2530名余の慰霊碑。

隣に立つ碑は京都の部隊を支援した嘉数の住民343名の慰霊碑だという。

 

「青丘の塔」韓民族出身の沖縄戦戦没者の慰霊碑

これらの慰霊碑は、1960年代半ばから70年代半ばにかけて建立された。1965年のアメリカの北爆開始を契機に反ベトナム戦争運動が世界的にも盛り上がった時代。米軍の前哨基地として利用される沖縄の反米意識も先鋭化する中でアメリカも沖縄返還を考えざるをえなくなり、1972年には返還が実現した。

 

トーチカ

ここに砲弾が降り注ぎ、こちらからも攻撃したのだ

 

<浦添大公園(前田高地)>

かつて浦添城があった前田高地。ここでも激しい攻防戦があった。

 

アメリカ統治時代の米軍の測量標石だろう。1966という数字と、「この標石を動かしたら250ドルの罰金または投獄」(たぶん…)という警告が見える。

 

クチグワーガマ(6班の壕)。ガマとは自然洞窟のこと。沖縄には石灰岩が広く分布しており、石灰岩が侵食されて出来たこのような洞窟がたくさんある。

案内板の記載:「入口の形が人間の口に似ていることからクチグワーガマと呼ばれ」(中略)「「当初10家族程が避難していたが、兵隊がガマに入り砲撃戦も激しくなったため、最後は3家族となった。これらの家族がガマを出るときは周辺に多くの戦死体があった。」との証言があります。(後略)」

具体的に何があったのかは記されていないが、凄惨な出来事があったことは間違いない。

 

<首里城>

首里城の地下には、陸軍第32軍の巨大な司令部壕があった。

この説明版は海軍壕公園の資料館にあったもの。位置関係がわかりやすい。

 

これも壕の関連施設だと思うが、説明版がなかったか見落としたかで、何なのかはよくわからなかった。

ネットで調べるとトーチカ説が多いけど、当時はもっともっとガジュマルとかが生い茂ってたはずだし、外を攻撃するには不向きじゃないの?という気がする。出入りもできる監視用の窓とかじゃないのかなあ…と素人考え

 

「首里城跡」史跡指定の記念碑

首里城跡が国指定史跡に指定されたのは沖縄返還と同日の昭和47(1972)年5月15日。首里城は何度も焼失と再建を繰り返してきたが、沖縄戦での焼失後は跡地に琉球大学が創立されたため、建立当初この碑は、大学キャンパスを臨んでいたはず

 

「琉球大学跡」碑

琉球大学は沖縄初の大学で、アメリカ統治下にあった1950年に創立された。本土復帰後しばらくして移転し(というか、県民に首里城再建への想いがあったから、必然的に移転することになったのだろうが)、跡地に首里城が再建された。

二つの碑が隣り合うようにして立つ姿は、まっすぐ一本道ではない、歴史の曲折を感じさせる。

 

<識名園>

のどかに見える王家の別邸・識名園にも

なんかよく見えなくなってますが

 

<軍用地買取り>

最初見たとき意味がわからなかったが、現在の地主から軍用地を買い取り、地代目当てに軍用地取得を希望する投資家に販売するという商売らしい。

投資家にとっては米軍相手ということで(いささか怪しい気もする昨今だが、最後は日本政府がケツ持ちするだろうしな)安定性という点では申し分ないし、買取価格と地代水準次第では魅力があるのだろう。地主の方も代替わりして、所有地の土を踏んだこともないという人も多いだろうし、いつ返ってくるかわからない土地を所有したまま地代を貰い続けるよりは、売却してまとまった現金を得た方が相続でも面倒がない、という判断もあるのだろう。

 

6 博物館・美術館にて

<沖縄県立博物館>

戦後の生活用品。薬莢の灰皿(デカい!)やコーラ壜を利用して作ったコップとかもある。

 

本土復帰前の1958年、沖縄県から初の甲子園出場を成し遂げながらも、持ち帰った甲子園の土を検疫で没収・廃棄されてしまった首里高校。日航の客室乗務員が彼らに甲子園の小石を贈った。

それに対する返礼の織物

 

 

<佐喜眞美術館>

普天間飛行場のすぐ近くにある民間の美術館。丸木位里・丸木俊夫妻の「沖縄戦の図」を中心とした展示がある。撮影はNGだったので写真は外観のみ

 

苦しくなりながらも目が離せない絵ばかりだったが、特に印象に残ったことが二つ

・「沖縄戦・読谷(よみたん)三部作」のうちのふたつ。入口に向かって槍を構える数人を除き、乳呑み児から老人まで横たわり絡まり合うガマ内部の混沌を描いた「チビチリガマ」と無人となった白い鍾乳洞が描かれた「シムクガマ」。

同じ読谷村にありながら、チビチリガマでは84人の集団自決があり、シムクガマでは日の目を見てからにしようとそのまま出て捕虜になったということが「シムクガマ」に小さな文字で書き込まれていた。地獄絵図と白い静寂、死と希望の対比が運命の残酷さと同時に「そもそもなぜこの悲劇がおこった?本当の原因はなんだ?」という問いを突きつける。

・「久米島の虐殺(1)(2)」の2枚。キャプションにはなかったと思うが修学旅行らしき高校生たちに絵の説明をしているガイドの方が、朝鮮半島出身者への差別が絡んでいると説明されているのが聞こえた。後で調べてみると、久米島ではスパイ容疑をかけられて虐殺された人が20人以上いたが、終戦後の8月20日に子ども5人を含む朝鮮人一家7人が日本軍に虐殺されたという事実があった。

子ども抱えて膝まづく母親に抜き身の刀振り上げたり、痩せさらばえた老人の首に縄つけて地べたを引きずったりしてる日本兵たちも「普通の日本人」(これだと今は皮肉になっちゃうな。「普通の人間」ね)なのだ。だから戦争は、敵を憎み自分と違うモノだと思い込む気持ちは、恐ろしいのだ。

 

7 小桜の塔と対馬丸記念館

最終日、行こうと思ってたところは巡り終えて、預けてた荷物引上げにロッカー向かっていたとき、偶然通りかかった。

戦争末期の1944年、多数の学童を含む疎開者を乗せた対馬丸が米潜水艦の魚雷によって撃沈され、乗員乗客1788人のうち8割以上が犠牲になった。当時、米軍によって何隻も船が撃沈されるなど、日本近海も既に危険な状態だったが、サイパン陥落後は沖縄に10万の兵士を送り込むため、食料確保のために戦力にならない老人や女子供10万人を疎開させる目標があり、対馬丸もそのための疎開船のひとつだった。

 

対馬丸記念館

 

無事に九州に着ければ、ヘロヘロになりながらも友達やきょうだいと笑って降りられたのかもしれないが

漂流の末なんとか救助されたわずかな生存者に対しては、撃沈の事実について厳しい箝口令が敷かれた。軍の威信の問題や、日本近海が危険となれば疎開が進まなくなることを恐れてのことだったらしいが、家族も犠牲者の安否を知ることができず、何も話せない生存者は長く苦しむことになった。

戦後も国が事件を公表し責任の所在を明らかにしたりとかはなかったようで、せめて戦後すぐに事実を発表し軍の護衛が及ばなかったからだと説明していれば、生存者や犠牲者遺族の苦しみも少しは和らぎ、事件の解明ももっと進んでいたのではないか。

 

 

この旅行から帰ってからのわずかな期間でさえ、絶望というかもう知らねえ勝手にしろ!と言いたくなることがわらわら湧いて出てきてる。

それでもあきらめたら試合終了なんで、出来る限りのことを。まずは知ること。事実から目を背けず、嘘や隠蔽に加担してしまわないように。それでも間違ったときは、勇気をもって認めることも。

 

 

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元々の知識不足のせいで書いてる最中も事実関係があやふやでどうだったっけ?と確かめなきゃならないことも、「あれ見逃してしまった…!」とガックリすること度々。

内容的にも散漫で、いつもにも増してわけわからないものになってしまいましたが、最後までお付き合いくださった方(がもしいらっしゃるなら)ありがとうございました。また、事実関係の誤りや不足等がありましたら、是非ご指摘ください。確認の上、訂正いたします。

 

 

最後「⑤わくわく観光編」で打ち止めにして、今年の旅行計画を立てるぞー

*1:「ひめゆり学園(女師・一高女)の歩み」という企画展資料まで買ってしまった。戦争関連だけでなく、王族貴族の女性でさえ学問・教育から遠ざけられていた琉球王国の伝統のもと、非常に厳しい状況から始まった沖縄の女子教育という観点からも興味深い。

*2:一体どんな二枚目だったんだろうと思ったが、帰ってから*1の資料P30を見たら、ヒゲが似ていたとかそういう理由だったらしい。

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