沖縄旅行アルバム②~歴史・伝統編~

琉球王国時代(1429~1867)を中心とした歴史関連のあれこれ。

※記事中の説明文は、私がその場で見聴きしたことのほか展示キャプションや入場パンフレット、各施設の公式サイト等で確認したことを記載したつもりではありますが、間違いや漏れ等もあるかもしれません。正確な情報については各施設や地方公共団体等の公式サイト等の信頼できる情報源でお確かめください。

 

 

1 首里城、金城町石畳通り、龍潭

2019年の火災後の再建も進み、2026年秋の正殿完成を控えた首里城。完成してから行った方がいいかな?と迷いましたが復旧公開されれば暫くは激混みだろうしそれを避けてるうちに何年も経ってしまうのも勿体ない、というわけで、まずは工事中の姿を拝見してみよう!というわけで

 

まずは首里城

入口・守礼門 牌楼形式という中国スタイル

 

高い石積みに囲まれた広い道を上っていく

 

漏刻門 正殿に近く、駕籠出勤OKな高官もここからは徒歩だった

 

廣福門 券売所がある。正殿などは有料エリア

広い庭に御嶽。

 

まだ復旧工事中の正殿だが、囲いの隙間から覗くことができる

屋根の形は中国風と和風の折衷様式なんですと(カーブを描いて張り出してる部分が、日光東照宮とかの影響を受けているのだとか)。

 

華麗な装飾。獅子と牡丹の配置された図柄は復旧時のもの(1992年完成・2019火災により焼失)とは違っていて、新たに発見された古写真を元に修正されたのだそうだ。埋もれた過去が長い時を経て蘇ることもあるのだ。

 

復興展示室にあった天井の木彫の試作品。学生や卒業生たちが教授の指導の下で彫り上げたもので、本番というか実作は教授が彫刻されるのだとか。なんか凄い。

 

焼け残った龍頭棟飾りのかけら

 

新しい龍はもう屋根に

 

焼け残った龍頭の柱

よく残った…新造される大龍柱の見本として活用されるらしい。

 

 

やっぱり完成後の姿も見てみたいよなーと思いながら正殿を後に、物見台に向かう。

 

湯屋。女官たちが使っていたらしい。

 

ここで火を焚いた痕跡もあるようだ

 

当然のことながら、厳重に囲われている笑

 

東(あがり)のアザナ。城壁を隔てた隣には、正殿やそれを取り巻く建物が、眼下には城へと上る道、そして市街が見渡せる。素晴らしい眺め。

 

登るヤツおるんかーい。ぶるぶる

 

ちなみに、正殿その他を挟んだ反対側の「西(いり)のアザナ」からは海も見える。今日の視界はイマイチだが…

 

 

「沖縄戦で焼失した首里城跡地にはアメリカ占領下の1950年に琉球大学が建設されたが、沖縄返還後に移転し、その跡地に首里城が復活した」というのは、この日ボランティアガイドの方からうかがって初めて知った。帰り道にふと気づくと、大学跡の石碑があった。

 

真珠道から金城町石畳通りへ

守礼門の南から始まる石畳の「真珠道」

海賊に対する防衛隊を派遣するために1522年に造られた道で、敷き詰められた琉球石灰岩が白く輝いていたというのがその名の由来らしい。

 

その現存する部分が現在では「金城町石畳」と呼ばれている。かつては貴族が住む地区だったそうで

 

美しく、風情のある道で、「日本の道100選」に選ばれているらしく、モニュメントもあった。

 

路傍の植栽も珍しいものが多く、楽しい

↑サンダンカ

 

↓ヤマドリヤシ(節があるけど竹ではないのだ)

 

 

接待用池・龍潭

一方こちらは首里城北側に位置する人工池・龍潭。冊封使を接待するために15世紀前半に造られたという*1

 

池の周囲は緑に覆われ、静謐な雰囲気。しかし…

 

ヒエッ

 

人に馴れきったバリケンが多数住みついている

ハブは…大丈夫なの!?

そういえば、そもそも冊封使様を御接待するときのハブ対策はどうしてたんだろうか。先触れが追い払って…とかだとうるさいし見栄えも悪いし、やはり事前に徹底的にローラーかけてたのかな。それとも昔は毒蛇なんて今よりずっと当たり前の存在で(清にだっていただろうし)、騒ぐまでもなく傾向と対策も皆に刷り込まれてたのだろうか。

 

2 浦添城跡&浦添ようどれ

そこに安らぎあらんことを「浦添ようどれ」

 

 

「ようどれ」とは王の墓所のことで、「夕凪」から来ているらしい。

直線と曲線の組合せが美し端正な墓所の石垣。

その手前には大きな草地が広がっている。これはなんと墓守を務めた三つの家の屋敷跡なのだそうだ。確かに広大な墓所だし王家のものなので入念な管理が必要なのはわかるが、三家でやっていたとは…どういう分担にしてたのだろうか??

 

番人屋敷跡から石段を登っていくと、墓所に通じる小道の入口に出る。

かつてはあの世に通じるトンネルのような雰囲気のトンネルだったという。今も張り出してくる岩の迫力に畏れを感じる。

 

小道をくぐりぬけると、墓所の前庭に

 

右側が13世紀に造られた英祖王の墓だとされ、左側が1620年に改修工事を行い隣に自らの墓を加えた尚寧王の墓となっている。封印の向こうには、石厨子に納められた王たちの遺骨がある。

尚寧王は厳しい時代を生きた。彼は第6代尚永王の子ではなく、第3代尚真王の長男でありながら廃嫡され、浦添に移った王子のひ孫。尚永王に嗣子がなかったため娘婿だった尚寧王が即位した。首里と浦添を結ぶ「尚寧王の道」開設による交通網の整備などの功績もある人だったが1609年に薩摩藩の侵略を受けて敗北。薩摩は明との交易を維持するために形式的には独立国の体裁を残したものの、「掟十五条」により交易・外交の自由をはじめ大幅に琉球の主権を制限した。尚寧王らは島津に伴われて駿府、江戸へと廻り、大御所家康や将軍秀忠とも引見。道中の駿府で信頼する重臣でもあった実弟が病没してしまうという悲劇もあった。王自身も1611年にようやく帰国できたというから、ようどれの改修はその後ということになる。

こういう経緯を見ると、歴代の国王のように首里の陵墓に入らず、ここを改修して入ることにしたのは、(いろいろに取りざたされているけども)苦難に疲れて、頑張ってきたけど最後は生まれ育った地で眠りたい、という人間らしい単純な思い故なのではないかなあ…と思ってしまう。

 

都の見える城「浦添グスク」

ようどれと同じく、戦後に復元されたもの。高台にそびえる城壁は、往時はさぞかし威容を誇っていただろう。

 

 

復元されているのは城壁だけだが、様々な遺構がある。ここで生活している王族がいたのだ。

 

ここから首里城が見える

 

傍系へと追いやられていた浦添王家の人々。尚寧王は先代の王の女婿だったわけだし有力な家ではあったろうが、いろいろと思うところはあっただろう。しかし王位に返り咲けたのは果たして幸運だったのか。

 

これは本物の遺跡

精緻な石積み。14世紀後半に築かれた城壁の一部だという。

 

中心から離れたとこにあるイメージ(勝手な思い込み)だった浦添市ですが、実は那覇市の北隣に位置するベッドタウンでゆいレールも来ている、便利なまちです。活気がありつつも観光地観光地した混雑はなく、のんびりした雰囲気が好きでした。

 

3 沖縄県立博物館物で

 

この3人の身分は

真中の人(赤地に模様の入った被り物(帕))、左側の人(黄帕)、右側の人(赤帕)の順。

真中の人物はたいへんに高貴な御方であるということだ。

 

第1王子が居住した中城御殿に保管されていた冠の模造復元品。大正時代の写真を元に造られた。

もちろん復元・複製品ですが、実際に被っていた当時は、博物館でよく見る古色蒼然とした奴じゃなく、こういうきらきら感あふれるものだったんだろうな~と思う。

 

最高位の神女である聞得大君が使用したとされる簪。特大サイズである。

 

地域ごとに微妙に違う三線。演奏を聴く機会がなかったのは残念

 

美しく繊細な螺鈿細工

 

の原材料となるヤコウガイ

 

国宝等に指定された建造物も軒並み戦災で失われ、戦後復旧されたものが多い。もちろん、博物館で展示されるような逸品の遺物も…

4 おきなわワールド内「琉球城下町」

「琉球城下町」には国の有形登録文化財となっている古民家が数棟移築されており、琉球の自然・歴史・文化を紹介する「王国歴史博物館」という小さな博物館もある。また、士族が着ていた伝統衣装を着て城下町を歩くこともできるし、様々な伝統工芸の体験コーナーもある(不器用者の私はパス)。

 

明治32年頃創建の「旧喜屋武家住宅」

間取図

雨端(アマハジ)と呼ばれる広い縁側が奥の角部屋・一番座の脇側まで廻らされてるのが独特な感じがする(もしかすると私が知らないだけで、他の地方でも普通にあるのかもしれないが)。

 

喜屋武家住宅には上がれなかったので別の家(上江洲家)ですが

雨端の回り込みによって、明るく開放的な感じが増している。この造りにできるのは、温暖な地域ならではだと思うが…

 

博物館では様々な展示がありましたが、私が特に惹かれたのは、

 

房指輪

これは素敵。込められた願いも含めて。このジャラジャラはもちろん実生活向きではないけど、高貴な女性の嫁入り道具だったそうなので、特別な時しかつけないのだろう。

 

女性用かんざし

確かに、首里城で買った琉球美人画絵はがきを見ても、みんな頭の上の髷の真中を貫くように簪を刺していた(曲がっている方が後ろ)。これは銀簪なので王族に次ぐ身分である士族階級の女性のものだったのだろう。

 

5 脳裡を「接待」の二文字が駆け巡る…すばらしき名勝・識名園

入場時に貰ったパンフレットによれば、1799年に完成した琉球王家の別邸で、冊封使の接待や国王一家の保養などに利用されたという。首里城公園の南、直線距離で2~3キロぐらいのところにある。

 

ガジュマルなどの亜熱帯ぽい緑の道を抜けていく

 

別邸らしく、開放的な雰囲気の御殿

 

琉球城下町(おきなわワールド)で見た有力者の屋敷と似た造りだけど、さすがに王家が造った接待用御殿だけあって広く、部屋数も多い。

 

風が通ると気持ちいいだろうな~明るくすっきりした雰囲気

 

一番奥が冊封使の部屋

 

台みたいなのは巨大なまな板だそうで

 

土間には大小のかまどが幾つも並ぶ

 

座敷の手前には微調整のための場所も

のどかで飾らない雰囲気に見えますが、もてなす側・仕える側はものすごい労力と神経を使っていたんだろうなと実感する。その緊張感には及ぶべくもないが、現役時代のあれこれを思い出してあああ…ってなる。

 

御殿からの池の眺め。小島には六角堂が立っている

 

庭園も派手さや人工的にぎちぎち作り込んだ感じもなく、伸びやかな感じなのだが二つの橋の対比とかはやっぱり計算された妙味を感じる(素人目線)

手前のは端正な切り石、奥側のはむきだしの岩肌のようなゴツゴツ感

 

六角堂。黒い瓦などは中国風だが、今の形になったのは意外と新しく、大正時代(と説明書きにあった)

 

ここから舟遊び用の舟を出した

 

 

南東の高台にある展望所「勧耕台」

 

かつては田畑が一面に広がっていたという。この展望台からは海が見えないのが特徴で、「冊封使に琉球をより大きな国に見せるため」なんて説もあるようですが…ホントかな~

もう19世紀ですぜ。清のエリート官僚がそんなんで胡麻化されて感心する…と琉球側も考えるだろうか?まあ「おっ、意外と広いのね」くらいは思ったかもしれんけど…それよりも、美しい田畑や耕作に勤しむ民を見せて、貿易だけじゃなく、農業にも地道に取り組んでる国なんですよ~とアピールしたかったんじゃないかな…清本国ではありふれた風景だろうから、故郷を思って心が和らぐ効果もありそうだし(前国王の葬儀から新国王の即位まで、冊封使は半年ほど滞在しなければならなかったそうだ)。根拠のない、勝手な想像ですが。

 

1838年、尚育王の冊封正使・林鴻年がここからの田園風景を見て揮毫した石碑(戦災で破損したため復元)

このときの尚育王は25歳。清国ではアヘン蔓延を問題視して取締を強化していた頃だっただろうか(アヘン戦争開戦は1840年)。琉球にも欧米からの接触・通商要請が来始める時期だったはず。新王と冊封使、二人は何を思いながら、ここからの眺めを見下ろしていたのだろうか。

 

 

帰り道、通用門近くにあった「番屋」に寄ってみる

番人の詰所みたいなものかと思ったら、小さいながらも座敷が2つあって雨端(広縁)があって、というちゃんとした家だった。廃藩置県後は空手の達人が住んだこともあるという。

 

6 シーサーと石敢當

シーサーは至るところにあって、普通の住宅はもちろん、ライオンズマンションの入り口とかにもあったし(個人の住まいなので写真はナシ)、

 

首里城だったか、手洗い場の蛇口

 

警察署や

 

マックスバリュにもこの通り

※反対側にもいます。吽形はなかったけど…

 

 

そして、映り込んでる「石敢當」という石碑ですが、「いしがんとう」という魔除けだそうです。魔物は直進しかできない性質を持っているため、T字路の先にある家に突入してくるけど、これを突き当りに設置しておけばぶつかって砕け散ってしまうというわけ。

シーサーと違ってこちらは全然知らなかったんだけど、これも至る所にあった。ブロック塀やピロティの柱(街歩きしてると、一戸建でも四角いコンクリート製で1階部分はピロティ、という造りが結構多い)に埋め込まれているものも多い。

 

念には念を入れ?

 

シーサーつき

 

そして、金城町石畳通りで見かけたお洒落すぎる石敢當

 

7 ラストは、ぶくぶく茶で

一度は飲んでみたいと思ってた。

クリームみたいで甘そうなイメージを持ってたけど、米粉を泡立てたものなので全然甘くない。お茶自体は玄米茶みたいな味わいで、甘いお菓子によく合います。琉球王朝時代からある伝統的な飲み物だそうですが、来歴には諸説あるみたい。泡が顔についても構わない、むしろそれを笑い合うのがいいんだ、という説明もありましたが、貧乏性の私は「泡が勿体ない…」と思ってしまう笑。

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