一日家を空ける必要ができたので、それならばどこか日帰りで遠出しようと、前から行こう行こうと思っていた「上毛野はにわの里公園」に行ってみることにした。
高崎線で高崎駅まで行って、バス25分ほどで三ツ寺(関越交通)。そこからまた20分ほど歩く。山が近い…
右から2つめ、頂上が電線のラインに一番近くなっている、端整なシルエットが榛名山であるらしい。
古墳時代の榛名山南側山麓は有力な豪族のもとに栄えた地域だったが、榛名山の二度の大噴火によって甚大な被害を受けた。しかしそれ故に、(ポンペイがそうだったように)直前まで活発に行われていた人間活動の痕跡が火山灰にそっくり埋もれたまま、後代による開発・破壊から免れて静かに眠っていた。
それが1500年を経て上越新幹線の建設工事の際に、この地を支配した首長の居館や支配下の農地や居住地などが発見され、近接する保渡田古墳群に関連する遺跡であることが判明、遺跡や遺物を展示・解説する「かみつけの里博物館」と古墳群を中心とする「上毛野はにわの里公園」が整備されたわけである。
まず古墳群の中で一番古い「二子山古墳」に登ってみる。
「前方後円」墳だから四角いこちらが登り口(前)で、円い部分が奥(後)ということになる。
円部分の下には舟形石棺が納められていた。が、火山灰に埋もれていたた居館や農耕地跡とは違って、古墳の存在は昔から知られていたので盗掘にあい、棺の中にはほぼ何も残っていなかった。それでも、わずかに残った破片などから副葬品が推定されている。
石棺にもいろいろ流行やランクがあり、ここの舟形石棺は当時としては最上級に次ぐ高いランクのものだったとか。
本体の「円」部分を囲むように、4つの「中島」と呼ばれる小丘が配置されている。儀式に使われたとかいう説もあるが、用途はわかっていない。
それにしてもやっぱり眺めいいなあ…と周囲を見渡すと
あれだ!あれが見たかったのだ。八幡山古墳(復元)
もう6~7年前になるだろうか。放送大学の「考古学」のOP映像で流れた石積みの古墳。まさかこんなの本当にあるんかい、と思ったけど調べたら高崎の八幡塚古墳だとわかって、いつか現地で見てみたいと思っていた。出不精がたたってこんなに経ってしまったが…
八幡塚古墳の全景。
近づいてみると、外溝があって外堀があって内堀があって、その先に本体があるのだが、内堀の堤に、何やら大勢の人や動物の埴輪が配置されている。
何かの儀礼シーンを模したものらしい。
かわいい。
仕切られていて近づけないのでよく見えない部分もあるが、隣接の「かみつけの里博物館」にも類似の再現展示があり、そちらは間近でみることができる。
登り口
石の隙間はコンクリで固めてあるが、それでも場所によってはかなり雑草が生えてきている。
綺麗なところは綺麗なんですけどね。
当時はもちろんコンクリなどないので、土を固めた斜面を石で葺いて仕上げていた。石で覆われた幾何学的なその姿は今見ても凄いと思うくらいだから、当時の人々は宗教的な畏怖に近いものを感じていたのではないだろうか。
しっかしこれ、造るのはもちろん管理はものすごく大変だっただろうな…草取りはどれだけやってたかしらないけど、あちこち石が緩んだり斜面が崩れたりとかは日常茶飯事だっただろうし、埴輪だって野ざらしなんだから劣化して壊れることもあったろう。首長としては祖霊への畏れや面子もあるから常に綺麗に保っておきたいだろうし、たぶん保守点検担当の人とか置かれていたんだろう。そして首長の力が衰えれば、すぐに荒れて盗掘し放題になるのもわかる気がする。何の生産もしないのにこれだけの労力なんて、よほど余力がないと割けないよね。
びっしり隙間なく並ぶ埴輪は
ボランティアの方々が製作したものらしい。内側を見ると日付と名前が刻まれていた(写真は日付のみ撮影)。
背骨部分を歩いて来て最奥の円部分から振り返ると、こんな感じの傾斜になっている。この一段高くなっている円部分の下に、棺をおさめた石室があった。
下りていくと
舟形石棺が展示されている。ぶ、分厚い。
比重の軽い凝灰岩とはいえ、ずっしり来るだろうな…
石室から上がって、再度四方を見渡すと、さっき見た二子山古墳と同じく、中島が4つ配置されている。
やはり四方から囲むことに意味があったんだろうけど、どう使われていたんだろう。
榛名山。この美しい山が…
妙義山。こちらは奇観というか、とても不思議な形をしている。この左のえぐれた感じとか、下から見たら凄いだろうな。
博物館では発掘された遺跡のジオラマ解説や、埴輪を始めとする遺物が展示されていて、こちらも面白かった。写真は基本OKなのだがフォトスポットを除いてSNSへの公開はNGなので展示写真はなし。
一番印象に残ったのは金細工の靴。ボロボロになったのは他でも見たことあったけど、復元されたキラキラのを見ておお!となったし、靴底にまで飾り玉が嵌め込まれていたのは初めて知った。これでは歩くどころか足を床につけることもできないから、儀礼用としても生きた人間には不向きだ。やはり、靴底まで飾る意味があるのは、足裏を見せて横たわる死者だからこそ…かな。
ところで。
本題からははずれますがこの古墳公園には、ヒバリの声がすごくてビックリするほど。私の守備範囲ではまず出会うことがないので、ピーチクパーチクとはこういうことかと今更ながら思ったり。ただ、思ったほどのどかな感じじゃない。そしてこれが…
雲雀上がりか!(こんな写真でスミマセン…)
なんか、思っていたのどかさとかなり違う感じがした。
狂ったように絶え間なく鳴き叫びながら、太陽に飛び込むのかという勢いで上がっていって、遥か上空に達しても、猛禽類のような悠然と滑空する余裕はカケラもなく、必死に翼をばたつかせている。そして、やがて疲れ果てたのかフラフラッと落っこちるように下降してくるのだ。
有名な大伴家持の『万葉集』4492番歌
うらうらに てれるはるひに ひばりあがり こころかなしも ひとりしおもへば
もこれまでは、のどかな歌声を聞いて淋しさまさる、と解釈していたけど、この姿を見、この声を聴くとなんかちょっと違うような気がしてきた。自分の孤独、自分の苦しみを、直截に雲雀の姿と重ねているような気がしてしまうなあ。
まあ私もこれが初見なので、もっと余裕持って飛び、楽しそうに鳴いてることもあるのかもしれないけど。
帰り道。工事現場かしらと思って覗いてみたら、発掘現場なのだった。
過去を探す旅は、まだ終わっていない。