『父が子に語る科学の話-親子の対話から生まれた感動の科学入門-』(ヨセフ・アガシ/講談社ブルーバックス)

科学史学・科学哲学・科学社会学者であった著者(1927-2023)が、1966年、当時8歳(!)だった息子アーロンと行った対話を基に出版された科学入門書。

と言っても、基礎的な科学の法則を我が子に順序だてて教えるというようなものではない。並外れて早熟で聡明な息子に、科学的であるとはどういうことか、偉大な科学者たちが偉大な先人たちの間違いを正しながら自らも間違いを犯し、次代の科学者がまたその間違いをただすが、彼らもやはり完ぺきではなくて…という繰り返しの科学史エピソードによって伝えている。50年以上経た今でも考えさせられる言葉に満ちているが特に、

 

「科学はつねに正しいと二人(※フランシス・ベーコンとガリレイ)は信じていた。これが二人の間違っていた点だ」「迷信と科学のあいだのちがいは、一方が正しく、もう一方がまちがっているということにあるのではない。」

 

というくだりは印象に残った。

迷信は正しいこともあるが普通は間違っており、科学は常に正しい…というわけではなく、科学も間違いをおかす。しかし迷信を信じる人々は経験から学ぶことが容易ではなく、科学者はふつう、経験から学ぶ姿勢を持っている、とアガシは説く。

科学には、事実にそぐわない場合は考えを改められる、という利点があり、それによってより真実に近づくことができる…のだが、今の科学はもちろん完璧ではないから間違いもあるということだ。知識も能力も時間も限られた一般人はとりあえず提示された真実を受け容れて生きているが、科学とは完成されていないものであり、「もしかしたら…」という余地は残しておくべきなのだろう。間違いであることを証明した人の理論がまた間違いである、ということもあり得る、という事実とともに。

科学を、というか、科学的にはこうである、と提示される解釈を、単に「信じて」しまったら、それは迷信と変わらないのだ。

 

 

個々の科学者のエピソードでは、「科学界のシンデレラ物語」と紹介されているファラデーの逸話が本当にシンデレラで面白かった。貧しい鍛冶屋の子だったファラデーは、製本業者の元で働いていた時代に製本しているその本を読ませてもらったり、一般向けの講義を聴講してノートをとってきれいに本に製本したり、講義ノートを教授に見せて実験室の作業員として雇ってもらったり…と苦労を重ねて成功し、王立研究所の実験室長となってからは子ども向けのクリスマス講義も企画したりした。

研究面では数学が苦手だったり、大多数の科学者が絶対的に支持するニュートン理論を批判することになって「全世界を相手にっている私は誰なのか」と自信が揺らいだりまた自信を取り戻したり、ちょっと伝記を読みたくなる人物である(この対話当時の話だろうが、ファラデーに関する本はニュートンとアインシュタインに関する本を合わせたより多いのだそうだ)。

ニュートンを批判したファラデーは「電磁誘導の法則」を発見したわけだが、ニュートン理論を擁護しようとして電磁石を発見したアンペールのエピソードにも触れられていて、

「ニュートンがまちがっていたにもかかわらず、かれを擁護しようとしたアンペールが偉大な発見をしたのは、とても奇妙なことではないかい?」

「われわれはあらゆる可能性を追求しなければならないのだ」

と、科学の進歩、真理の追求がひとつの正解へと突き進む一本道ではないことも示唆されている。

 

対話の中で出て来る諸説については、アガシとアーロン少年の対話についていけない部分もあって情けない…そういう意味でも苦手な物理をもう一度勉強したくなる本でもありました。

 

ところで、序盤、ジョルダーノ・ブルーノやガリレオについて触れた文脈の中で、「他人の間違いをわざわざ正してやる必要はない」とアガシがアーロンに忠告するくだりがあり、ここも考えさせられる場面だった。

「だれかを火刑に処すような人々は、たとえかれらのほうにまちがいがあることを示したとしても、同意はしてくれないだろう。人を火刑に処すような人々は、自ら進んで他人の話に耳を傾けるような人々ではない」

 

まあ、そうですけどね…

ここは、「ガリレオは他の人々にまちがいを教えてあげなかきゃいけなかったんじゃないの」というアーロンの批判に対してガリレオを擁護しただけとも取れるし、優秀すぎる息子が周囲と摩擦を生じさせない処世術を教えたとも取れるけど、ひょっとしたらこの言葉の背景には、ユダヤ教への疑問から宗教学校を退学し、哲学、物理学の世界に進みながらも失望し苦労した彼自身の経験から来る諦観もあるのかも、という気もする。

アガシが指摘したような人々は今もいる(そこまでいかなくても、意見を異にする人を目障りに思い、拒絶する傾向は誰にでもあるだろう)。そして本書出版当時に比べて情報量が格段に増えた分、私たちの周りには「まちがい」が氾濫していてスルーしなければ到底やっていけない。けどやっぱ、スルーしてはいけない「まちがい」はあるし、「まちがい」を指摘した人を不当に攻撃しないように、不当な攻撃を見過ごさないようにしないといけないんだろうな。難しいことだけど。

 

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