19世紀初頭、李氏朝鮮後期の天主教(キリスト教)迫害を描いた歴史小説。何かアジアの文学を読みたいな、と図書館の書棚を眺めていて目について、途中まで読んだところでAmazonでポチってしまいました。
信仰を隠さねばならない息苦しい生活、横行する腐敗、凄惨な拷問、陰鬱な自然。そして殉教という言葉に収めきれない、いわく言い難い結末。こう並べると暗いだけの話のように見えますが、凄惨な場面や荒涼とした自然、ありふれた貧民の生活を淡々と描く簡潔な筆致が、素晴らしく美しいのです。
タイトルの「黒山」は主人公格のひとり、丁若銓が送られてきた流刑の島の名。位置的には朝鮮半島の南の端から更に西に浮かぶ離島。
丁若銓の一家は身分の高い両班だったが天主教に傾倒し、やがて兄弟そろって捕縛されてしまう。丁若銓は鞭(といっても棍棒に近いもので、骨が砕けるような威力がある)を受け背教、死は免れて流罪となった。このとき兄弟のひとり丁若鍾は信仰を貫き処刑されている。
一方、彼の義理の甥(長兄の娘婿)で少年時代に王に謁見したこともある俊才・黄嗣永は捕縛の手を逃れ、潜伏生活に入る。
黒山島に送られる途上の丁若銓が、裂けて砕けた身体の痛みと共に鞭刑を思い出す章から始まる38の断章は、丁若銓の黒山での生活と潜伏する黄嗣永の動向を中心に、時には過去にさかのぼりながら上は大妃から下は逃亡奴隷まで、迫害事件に直接間接にかかわった様々な立場の人々を代わる代わる描いている。
拷問により心身ともに衰えていた丁若銓は、魚に詳しく観察眼の鋭い島の若者・昌大と出会い、黒山の自然に目を開かれ、内心忸怩たるものを抱えながらも島に馴染んでいく(現実でも丁若銓は博物学者で、流刑時代に書いた海洋生物学の著作もあるらしい)。
一方、本土では「点」としての個々の信徒たちと、「線」としての彼らの繋がり、そしてその繋がりを把握し一網打尽にしようとする為政者側の動きが描かれる。
六本指を持つ解放奴隷、穏やかで伸びやかな心を持った馬子、大繁盛の汁飯屋兼塩辛屋を経営する女(この汁飯がまた美味しそうなのだ)、一生の大半を宮廷で過ごし、宮廷で天主教を知った元宮女、主人の暴力から逃れてきた奴隷娘など、天主教の信奉者たち。捕盗庁の手先となって信者網に分け入り、黄嗣永に繋がる線を探ろうとする背教者(塩辛の行商人なんだけど、この人の塩辛も凄く美味そう)。天主教の猖獗に怒り、幼君の継祖母として摂政の地位につき、弾圧を主導する老いた大妃。
信徒たちの素朴な信仰、背教者朴チャドルのあまりにも人間的な弱さしょうもなさ、理想と現実のギャップに対する大妃の怒りと焦り(もっと愚かで無責任な人間だったら、弾圧はもっと緩かっただろう)。どれも印象深いけど、なかでも無学な馬子の馬路利が洗礼名をもらうまでの過程は、彼の穏やかさやどっしりとした確かさのせいか、凄く好きだし、読んでいてホッとする場面だ。
物語の終盤、官憲の手が迫ってくると黄嗣永はさらに深く身を隠し、そのことがある歴史事件に繋がる。私ごときがこの事件についてどうこう言うことはできないが、ことここに至って端整な姿勢を崩さない黄嗣永の清明さには、背教した丁若銓や朴チャドルはもちろん、刑死した他の信徒たちとも違う、異質なものを感じる。
最初の方で丁若鍾が「(兄と弟は)心根が弱く虚弱で、信仰の根付く器ではない。私の兄弟は天主教を一つの不思議な物語のようにとらえていたのみ、」と切り捨てて、自分ひとり刑死していった場面を思い出させる。違っていたのはおそらく、丁若鍾と黄嗣永だけなのだ。黄嗣永は温和な人物なのだが、ラストの行動にはやはり、信仰至上主義的な尖鋭さがあったように思う。
大妃の弾圧や役人の腐敗、背教者朴チャドルはもちろん、黄嗣永がとった行動も、許せないと思う人はいるだろう。しかし「私は言葉や文字で正義を争うという目標を持ってはいない。私はただ、人間の苦痛と悲しみと希望について語りたい。」と後書きにあるとおり、作者は誰かや何かを責めたり糾弾したりはしない。ただ、そこにある痛みや苦しみを「こうである」と語るだけだ。流れる水のように、淡々と。
『黒山』の静謐な美しさは、作者のこの姿勢がもたらしたものかもしれない。他の作品も読んでみたくなりました。