オーストラリアの地方都市にほど近い開拓地で暮らす貧しいスコットランド移民の子・スコティ少年の元から、子馬タフが消えた。
小児麻痺を患い、下半身不随となった少女ジョジーは、富裕な牧場主である父が所有する地所からきかん気な野生の子馬を選び出してボーと名付けて調教し、苦労の末に自分専用の馬車を引かせることに成功した。
相棒をうしない失意の日々を送っていたスコティは、ある日ジョジーと子馬に出会い、こいつはタフだと言って子馬を取り返そうとするがもちろん相手にされず、こっぴどくとっちめられる。すると今度はボーが姿を消し、発見されないままスコティはボーを盗んだ咎で裁判にかけられることになる。弁護人は語り手キットの父・イギリス人弁護士のクェイル氏。
いったい子馬は誰のものなのか。スコティを支持する者、ジョジーに味方する者、オーストラリアの田舎町は議論と興奮のるつぼと化す。町を二分した対立、その結末は…
追い詰められ、罪を問われたスコティの行く末は?
子馬はどちらのものなのか?
不可解なクェイル弁護士の法廷戦術は何が狙いなのか?
ハラハラドキドキの中にも「法とはなにか」「正義とはなにか」考えさせられる良作。特に、最初の裁判(いちおう3回ある)でクェイル弁護士が指摘した不平等は、(この物語はおそらく1930年代~40年代初頭くらいの話だが)過去のことでも他人事でも全くない。その頃だって法律の条文には「金持ちや名士には手厚く」とか「便宜を図れ」とか書いてあるわけじゃなかっただろうが、実際の適用は違っていた。そして今、この日本でも…
読者としては語り手キットの友達で、冒頭からタフとの関係や苦しい生活事情、タフを失ってからは転落の崖っぷちにあることが描かれるスコティに肩入れしてしまうのだが、ジョジーの身体的ハンディキャップをものともせず突き進む意志の力や負けず嫌いの粘り強さ、そしてボーへの執着は、彼女を単なる憎まれ役・敵役にはさせない。
両者のどちらを支持するか、という町の人々のスタンスも、貧富や社会階層で単純に色分けされるものではない。たとえばクェイル家の子どもたちも、キットと弟はスコティ支持だし姉はジョジー支持、じゃあ女子は皆ジョジーなのかと言うと医者の娘ドリスはスコティ派だし、先生たちも分かれてるし、金持ちにもスコティびいきはいる。
階層の違いによる偏見や反感だけでなく、人間として理屈抜きの好き嫌い、そしてどちらの置かれた立場により深く同情するか、が影響しており、その複雑さがこの町をリアルな血の通ったものにしている。
また、日々の生活の描写、人々の心のありかたに「オーストラリア的であること」が色濃く表れているようだ。作者は1918年生まれのオーストラリア系イギリス人で、少年時代をオーストラリアで過ごした。キットやスコティたちの日常、町の人々の仕事や生活、子馬の調教や草競馬のレースのいきいきとした描写などはその経験が基になっているのだろう。
そして物語のキーともなるオーストラリア的気質を町の人々に認めつつ、自分もそうだ(でも父は違う)と感じるキット。キットはオーストラリア人、父はイギリス人弁護士なのだ。この辺りの俯瞰した感じも作者自身のオーストラリアとの距離感が反映されているのかもしれない。
物語のラスト、いろいろな矛盾が解消されたわけではないけれど、苦しみを経てスコティもジョジーも壁を一つ乗り越え、未来へと向かう。二人だけでなく、両者の親たちやキット自身、そしておそらく町の人々も。
森谷明子の図書館ミステリ『花野に眠る』に出て来て気になったので探して読んだのですが、読んでみてよかった!感謝してます。